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長野県中野市

高梨氏城館跡

2016年04月30日

甲越争乱はこの地方にも波及し、高梨氏の身辺にもその影響が及んできた。すなわち武田晴信(信玄)は佐久方面から信濃に深く侵入し、村上・小笠原氏らの信濃の雄族もすでに長尾景虎(謙信)を頼って越後に逃れていた。長尾氏と深い姻戚関係にあった高梨政頼も身辺に武田勢の手が伸びると中野の地にわずかの守備兵を置いて自らは飯山城へ退去した。当時飯山城には高梨氏と縁故があった泉氏が入っており、長尾氏の庇護のもとにその後しばらく共同で両氏は飯山城の守りについた。弘治年間(1555-58)前後の頃のことである。
永禄4年2月から3月にかけて、長尾景虎は関東に出陣し北条氏康を小田原城に囲んだ。この時、政頼は越後春日山城の留守の大将を命ぜられており、高梨氏と信濃との関係は一時断たれたわけである。同年9月川中島の激戦があったが高梨氏らは上杉勢の先陣をつとめたようである。
そして信玄・謙信が相次いで没し、織田信長が全国制覇の一歩手前で倒れ、ついで羽柴秀吉が全国統一に成功するなど激動の時代を迎えるが、その間、天正10年8月、謙信の養子の上杉景勝が川中島を領有するに及んで、高梨弥五郎(頼親)は安源寺周辺二千貫の地を安堵されている。
安源寺周辺を宛行なわれて間もなく頼親は再び待望の中野小館(御館)に入ることがかなえられたが、慶長3年、景勝の会津移封に伴い、再び異郷の地へ去った。
(日本城郭体系より)

小館は長方形を呈しており、堀敷を除いて東西約110m×南北約80mの規模を有している。周囲に土塁がめぐらされており、最も高いところで高さ約3.5m、低い所で約1mである。
土塁の裾には一部分明らかに後世の付加と思われる野面積みの石垣がみられ、また東方の空堀の中にも野面積の石垣があり、ある時期における当館の修築を考えさせるものがある。おおむね高い土塁の裾には石垣があり、東側の低い土塁にはそれがない。南側の土塁は低くかつ狭いが、大手の手前で高い土塁に変わっている。土塁の外側には幅約8m前後の空堀が現存し、一部は埋まっているが、最も良好に保存されている所では深さ約2.5mに及んでいる。
(日本城郭体系より)

長野県史跡高梨氏城館跡
高梨氏城館跡は、居住の場としての小舘館跡と軍事・防衛の場としての鴨ヶ嶽城跡から構成される。館跡は、東西130メートル、南北100メートルあり、原型を良くとどめた土塁と空掘が四方を囲んでいる。土塁内には庭園跡、建物跡(12棟)、門の跡が確認され、良好に保存されている。
山城は館跡の東方、鴨ヶ嶽の山頂部(比高約300メートル)を削平して構築されており、南北約500メートルにわたる。本郭を中心に、南北にいくつかの郭を設け、大小の堀切を構えている。
この2つの城館跡と先の領主中野氏との関係は明らかでないが、城の主体は戦国時代の初め(16世紀初頭)に高梨氏によって構築されたものと考えられる。北信濃の雄族である高梨氏の拠点にふさわしいもので、戦国時代の様子をうかがい知ることのできる貴重な史跡である。
(看板資料より)

高梨館跡公園庭園址について
庭園は都の寺院から貴族へ、さらに15世紀(室町時代)には地方上級武士の社会にも普及する。この頃から、従来の池泉式庭園(舟遊・廻遊式)に加えて、枯山水式庭園も広まり始める。
この庭園は京都文化の摂取に熱心だった高梨氏が、氏の最盛期にあたる16世紀(戦国時代)の初め頃に築庭されたものと考えられる。池は館の最も重要な建物である会所(客殿)跡に面している。池の東南部には大きな石を中心とする滝の石組があり、庭の主体石で固められている。汀(みぎわ)には岬が少し突き出ており、池の中に岩島が見られる。導水路・排水路の跡が残っているので、当初は池泉式の庭園であったが、のちに枯山水風に変えられたものと考えられている。
中世の庭園が確認される館跡は例が少なく、県内では初めてのことである。高梨氏の文化的レベルの高さを示すとともに、地方武士の庭園のあり方を示す好例である。
(看板資料より)

高梨氏館跡の建物跡と庭園跡
昭和62年から6ヶ年にわたって行った発掘調査により、館の東南隅部には庭園があり、その北側に計8棟の建物が建っていたことが明らかとなりました。建物のうち5棟は礎石建物で、3棟は堀立柱建物です。礎石建物のうち第3号建物址は南側の庭園に臨んで建ち、館の主殿と考えられます。東麺土塁に沿って建つ3棟の建物はすべて総柱建物で、倉庫として建てられたのでしょう。建物と建物の間には石組溝がめぐり、石組の貯水枡なども見られます。
主殿南側の庭園は、土塁を背景として左奥に滝石組、右に大きな立石を配置し、その前面に中島を擁する石組みの池が造られています。当初の池には滝から水が落とされていましたが、ほどなく滝へ続く導水路は埋められ、枯山水へと改められたようです。
公園整備に伴って、建物跡は遺構を土で覆って保護し、その上に石や舗装材を用いて建物の規模を表現しました。また、庭園は後期の池に合わせて滝石組・護岸石などの露出・修復を行い、築山などの地形の復元を行いました。
(看板資料より)

 



2004年10月17日

長野県史跡高梨氏城館跡
高梨氏城館跡は、居住の場としての小舘館跡と軍事・防衛の場としての鴨ヶ嶽城跡から構成される。館跡は、東西130メートル、南北100メートルあり、原型を良くとどめた土塁と空掘が四方を囲んでいる。土塁内には庭園跡、建物跡(12棟)、門の跡が確認され、良好に保存されている。
山城は館跡の東方、鴨ヶ嶽の山頂部(比高約300メートル)を削平して構築されており、南北約500メートルにわたる。本郭を中心に、南北にいくつかの郭を設け、大小の堀切を構えている。
この2つの城館跡と先の領主中野氏との関係は明らかでないが、城の主体は戦国時代の初め(16世紀初頭)に高梨氏によって構築されたものと考えられる。北信濃の雄族である高梨氏の拠点にふさわしいもので、戦国時代の様子をうかがい知ることのできる貴重な史跡である。
(看板資料より)


土塁と築地塀
土塁を調査した結果、土塁の中に漆喰で固められた築地塀が埋もれていた。このことから、土塁が造られる以前に、築地塀が存在していたことが明らかになった。このようなことは極めて希な例であり、土塁で囲まれた居館の成立過程を知る貴重な資料となる。
(看板資料より)


高梨館跡公園庭園址について
庭園は都の寺院から貴族へ、さらに15世紀(室町時代)には地方上級武士の社会にも普及する。この頃から、従来の池泉式庭園(舟遊・廻遊式)に加えて、枯山水式庭園も広まり始める。
この庭園は京都文化の摂取に熱心だった高梨氏が、氏の最盛期にあたる16世紀(戦国時代)の初め頃に築庭されたものと考えられる。池は館の最も重要な建物である会所(客殿)跡に面している。池の東南部には大きな石を中心とする滝の石組があり、庭の主体石で固められている。汀(みぎわ)には岬が少し突き出ており、池の中に岩島が見られる。導水路・排水路の跡が残っているので、当初は池泉式の庭園であったが、のちに枯山水風に変えられたものと考えられている。
中世の庭園が確認される館跡は例が少なく、県内では初めてのことである。高梨氏の文化的レベルの高さを示すとともに、地方武士の庭園のあり方を示す好例である。
(看板資料より)


高梨氏館跡の建物跡と庭園跡
昭和62年から6ヶ年にわたって行った発掘調査により、館の東南隅部には庭園があり、その北側に計8棟の建物が建っていたことが明らかとなりました。建物のうち5棟は礎石建物で、3棟は堀立柱建物です。礎石建物のうち第3号建物址は南側の庭園に臨んで建ち、館の主殿と考えられます。東麺土塁に沿って建つ3棟の建物はすべて総柱建物で、倉庫として建てられたのでしょう。建物と建物の間には石組溝がめぐり、石組の貯水枡なども見られます。
主殿南側の庭園は、土塁を背景として左奥に滝石組、右に大きな立石を配置し、その前面に中島を擁する石組みの池が造られています。当初の池には滝から水が落とされていましたが、ほどなく滝へ続く導水路は埋められ、枯山水へと改められたようです。
公園整備に伴って、建物跡は遺構を土で覆って保護し、その上に石や舗装材を用いて建物の規模を表現しました。また、庭園は後期の池に合わせて滝石組・護岸石などの露出・修復を行い、築山などの地形の復元を行いました。
(看板資料より)


場所が分かりづらく周囲の狭い道を一周してなんとか正面の駐車場にたどり着くことができました。館跡は思ったより立派で周囲を土塁と堀で囲われていて、山梨県勝沼町の勝沼氏館跡くらいかやや大きめの規模のような感じでした。現地の案内板によると詰めの城としての鴨ヶ嶽城が紹介されていたので車で行けるとことまで行ってみましたが、途中で場所を聞いた老人によると歩いて1時間〜1時間半はかかるとのことであり、今後まだ訪問地も多く予定していたので、今回は鴨ヶ嶽城に行くのは断念しました。車を止めたところからは、黒姫山、戸隠、妙高山などがきれいに見れました。

 

 
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