←前のページ トップページ↑ 次のページ→

長野県北佐久郡立科町

津金寺

2010年01月31日


信濃の談義所 津金寺
津金寺は慧日山修学院(えにちざんしゅがくいん)と号し、天台宗比叡山延暦寺を本山としている。
江戸時代中期の住僧長海によって著された「津金寺由来記」によると、大宝2(702)年古代東山道を通って信濃入りした奈良薬師寺の僧行基が、戸隠権現の霊験により聖観音を安置し津金寺を開いたと伝えている。
鎌倉時代に津金寺談義所としてその名が現われ、公称する天台宗最古、建治2(1276)年の学問所。所蔵する「津金寺名目」は、応安3(1373)年学僧穏海によって著された。
また、戦国期にこの寺から高野山に宛てた宿坊文書や、武田信玄下付の改宗に関する朱印状などがある。
春は境内裏山のカタクリを初めとする数々の山野草や叡山杉の大木(樹齢約900年)、また初秋の白萩、晩秋の紅葉、冬の雪景色など、四季折々に趣がある。
(看板資料より)

武田氏が佐久に侵入するに及んで、元亀3(1572)年、寺は信玄の「定」によって四宗兼学の道場から天台の法流に復帰してその庇護を受けた。しかし武田氏の勢力が衰えるに及んで、近郷の豪族が寺地を侵し、兵火にもあって数十年間衰微を極めた。(『信州の仏教寺院』第1巻118頁)
(長野県の武田信玄伝説より)

津金寺仁王門

この仁王門は、芽葺単層切妻造り八脚門(三間一戸楼門)の素朴な造りであり、文化10(1813)年に再建されたもので、立川流の宮大工、上原市蔵(上諏訪)、田中円蔵(当町茂田井)両人の作である。
寺の守りとして立つ仁王像は、戸隠の九頭龍権現の作といわれている。九頭龍権現がこの仁王を造る際に見ることを禁じたが、その禁を破ったものがあり、製作を途中で止めて昇天したという伝説があり、未完成の仁王として知られている。
(看板資料より)


阿弥陀堂

阿弥陀三尊像を祀る。
滅罪(めんざい)の道場で、主に追善法要が執り行われる。
昭和56年再建。
(看板資料より)


津金寺観音堂

観音堂は、正面・側面に円柱が4本立つ方三間堂という形式で、屋根は入母屋造り、銅板葺き(もとは茅葺き)です。
この建物は江戸時代中期の元禄15(1702)年に再建されたものですが、向拝(ごはい)を設けず、内部に来迎柱と呼ばれる円柱を立てるなど、中世以来の仏堂形式を踏襲しています。しかし、柱が細長く、全体に背丈が高くなっている所は、近世の特色といえましょう。この観音堂を建てた大工は不明ですが、部材の形や絵様などから、佐久郡下の工匠によって建てられたものと推定されます。
内部の天井は格(ごう)天井で、板には花鳥画が描かれています。この絵は松本藩水野家浪人の絵師によって宝暦3(1753)年に描かれたものです。
堂内には三基の宮殿があり、中央が本尊を祭る宮殿です。この宮殿は全体が漆塗りされた華麗なもので、柱の上部にある朱塗りされた複雑な組物が目を引きます。両脇の宮殿は、江戸後期に作られたもので、諏訪の工匠による繊細な彫刻が細部に施されています。
(看板資料より)


津金寺妙見堂

鞘堂の中にある本殿は、側面から見ると屋根が「へ」の字の形をしています。この形式を流れ造りといい、本殿では最も多い形式です。この正面に湾曲した軒唐破風(のきからはふ)という屋根を付けたり、建物の至る所に彫刻が施されており、江戸後期の特色がよく表われています。
この建物は、天保7(1836)年に、立川流二代目・和四郎富昌と地元茂田井の田中円蔵によって建てられました。立川富昌は諏訪大社上社本宮拝殿・弊殿(重要文化財)など長野県内外に多くの作品を残した諏訪の名工でした。
本殿の彫刻をみると、縁の下には兎・唐獅子・山羊・麒麟・犬など、階段下には鯉・千鳥などがはめられています。立川流の特色が最も表われているのは、向拝(ごはい)と母屋のつなぎに龍の彫刻を用い、軒唐破風内部に「打出の小鎚」や巾着袋などの「宝尽くし」の彫刻を入れていることで、これは立川富昌の多くの作品に共通する特色です。
(看板資料より)


津金寺宝塔

遊歩道を60mほど登った中腹に建つ宝塔三基は、奈良時代から東信濃に繁栄し、この地方の政治経済面で重要な地位を占めていた滋野氏の供養塔である。
滋野氏は朝廷直轄の御牧、信濃十六牧の一つ望月牧の牧場経営に携わっていた。
三基の宝塔の内、右側二基は滋野某夫妻が生前の承久2(1220)年に建てた逆修供養塔。左側の一基は嘉禄3(1227)年滋野■■(■の文字は不明)が亡父母供養のため、写経を納めた納経供養塔である。
(看板資料より)

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→