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長野県上田市

浦野城

2009年10月
04日

浦野氏の歴史と居館跡
浦野氏は平安時代末期の1150年頃に祢津氏から分かれ、浦野字前沖内堀・下前沖などの土地を開発し、阿鳥川から水を引いて開田し、開発所領としました。
鎌倉時代初頭1190年頃には「浦野」を名乗り、幕府の御家人になり、日吉社領浦野庄の「地頭」になりました。その頃、領地を見渡せる現在の浦里小学校西南部に堀と土塁をめぐらせた居館を築きました。今、堀跡を示す水路が東西およそ100m、南北およそ60〜100mの地をめぐっています。土塁跡は南側と西側におよそ60mずつ残っています。ここは「内堀」と呼ばれています。
南北朝時代から室町時代に浦野の谷の各地(上田市浦野から青木村)に分族が発展し、諏訪上社との結びつきを深め「神氏」となりその一方で霧ケ峰高原元穏射山に似せて、秋葉山の中腹に東西80m南北60mn広場と、北側と西側の斜面に広場を見おろすように観覧席(階段状の桟敷)を設けて「御射山祭」を行いました。戦国時代に入るとここを改修して山城に用いています。
浦野は1541年に村上氏の攻撃を受け、1553年には武田氏の配下となる変転がありました。1582年武田氏の滅亡後は分族のそれぞれが四百年余にわたる発祥の地浦野を離れ、真田、北條、小笠原、松平氏などに分かれて仕え今日につながっています。
(看板資料より)

以前来たときに教えてもらっていた入口から登って行きました。ちょと歩けば上に出ることができるだろうと思っていたのですが、実は結構登りました。広い平地の部分に出ましたが左側に更に上に登れる所があって登りきってみると平地になっていました。案内などがなかったのでどこが本郭なのか不明でしたがある程度規模が大きい山城のようでした。



2009年05月
04日

天文年間に浦野民部允が城主になるに及び、初め村上幕下であったが、のちに武田氏に与した。弘治3(1557)年の川中島合戦の活躍に対する武田信玄からの感状を得たり、永禄年間には一族あげて上野の地で活躍をみせたり、永禄10年には上野三嶋の地を宛行われるなど、この時期の躍進ぶりはめざましいものがある。なお、同年には浦野幸次をはじめとして一族・被官などにより多くの起請文が生島足島神社に捧げられている。
天正10(1582)年の甲斐武田氏の滅亡後、越後の上杉景勝に属し、上野領地を安堵されるが、後に真田氏の幕下となり元和8(1622)年に真田信之の松代転封に伴って同地に赴いた。
(日本城郭大系より)

浦野高札場があったお宅で浦野城について聞いてみたのですが対応していただいたご婦人が親切に色々なことを教えてくれました。登り口の場所ももちろんですが、御射山祭りが行われていたのではないかという説もあるのだそうです。またご婦人自身も先祖が武田勝頼公に仕えていたと伝えられているとのことで長篠の武田勝頼観戦地などに行ったことがあるとのことでした。今回は足を痛めていたので登れませんでしたが次回来た時はまた寄らせてもらいたいと思いました。

 

 
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