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長野県千曲市

鷲尾城

2009年10月04日

この城は、山頂に築かれた中世(15〜16世紀)の山城である。本郭は東西28メートル、南北21メートルほどの不整楕円形をしており、外壁は板状の石を小口積みにした高さ4メートルほどの石垣となっている。南側に入口を設け、また南側から西側にかけて、犬走り状の平坦面を設けている。東側には高さ3メートルほどの土塁と、深い2条の堀切を設け、東西28メートル、南北12メートルの一郭脇曲輪があり、更に3条の堀切を設けている。
こうした高い石垣によって本郭を築く近世城郭のような山城は他に例がないものである。
築造の由来について知るところでないが、倉科氏によって築かれたと伝えられている。
(看板資料より)

本郭南側の石垣

麓の案内板には30分と書かれていましたが、私の足で約15分くらいで鷲尾城本郭にたどり着きました。本郭の案内板に書かれている通り、これだけしっかりした石垣が確認できるところは少ないと思います。

本郭南側の虎口

東側の石垣

東側の堀切

大日堂

大善寺跡

1673年、真田信之公次女見樹院様開基。1742年大雨により流出。
(看板資料より)

 



2009年05月04日

鷲尾城跡登り口の場所を確認しました。今回は足を痛めていたので登りませんでした。看板には30分と書いてありますが以前は40分と書いてあったそうです。鷲尾城の先には倉科将軍塚があるとのことでした。

この城は村上氏の分かれである倉科氏のものとされるが、倉科氏は武田氏の侵攻によって安曇へ逃れたともいわれる。鷲尾城は清野氏の本城とされている鞍骨城とも極めて近く、鞍骨城の外郭の役割を果たしていたといえる。
周辺一帯は古墳群地帯で、本郭にはおそらくこれらの古墳の石を用い、積み方もまねたものと思われる。清野氏が武田方についたのは、戸石崩れで武田晴信が退却した天文19(1550)年のことである。屋代氏が主家の村上氏を見限ったのは同22年なので、その間に西方に対する備えとして構築し直したものと考えられる。
(日本城郭大系より)

 

 
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