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長野県上田市

矢沢城

2009年10月
04日

前回訪問したときは膝を痛めていて登ることができなかったので今回立ち寄りました。城跡が全体的に公園になっていましたが、ブランコがあるような公園になってしまったわけではなく、城の遺構を残した公園になっていました。一番高い場所に神社があって裏の方には土塁跡のようなものもありました。



2009年05月
04日

真田幸隆の弟、矢沢綱頼(頼幸とも)の居城。綱頼は諏訪神氏ゆかりの矢沢家を継ぎ、幸隆の子昌幸が上田を領した後はその重臣として活躍した。昌幸の子幸村(信繁)が越後春日山の上杉景勝に仕えた時は綱頼の子三十郎頼定が供をしている。
天正13(1585)年上田合戦の折は三十郎がこの城を守り八百の守兵で依田源七郎ら千五百の軍勢を退けたという。後、矢沢氏は真田信之に従って松代へ移り、矢沢は仙石政勝の領地となった。
(看板資料より)

海野氏の分族である矢沢氏は、文明2(1470)年の諏訪神社上社の神事奉仕をはじめとして、延徳・天文・永禄・天正の各年間に諏訪上社の神使御頭を務めている。天文10(1541)年5月、武田信虎・諏訪頼重・村上義清が海野棟綱を海野平に攻めた。この時期には海野支配下であったが、天正8-9年には矢沢綱頼が武田勝頼から沢口での戦功を賞した感状を得るなど、以降、武田氏に属して活躍した。
武田氏滅亡後、綱頼は真田氏の重臣として上野沼田城代を努め、その間北条氏との幾多の抗争に優れた軍略を発揮した。同城はこの矢沢綱頼の築城と伝えられ、同城の北に接する小字北屋敷は、その居館跡とされるが、それ以前、真田氏が真田に居を構えた時期に、西方の外城である戸石城と共に神川の左岸を扼する重要な居城として構築されたとの見解もある。
(日本城郭大系より)

矢沢城の説明板のところまで行きました。その上が公園になっていてそこが城跡であるとのことでしたが足を痛めていたため登ることができず今回はここまでとしました。

 

 
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