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愛知県新城市

米倉丹後守正継之墓

2014年08月16日

米倉丹後守正継之墓
戦後33年目に戦跡を巡歴した金子藷山の「藷山随筆」に「丹後守米倉子の墓は大宮郷の地内岩倉山の東北端にて連吾川の右岸へ半町ばかりの所に小さき野面石に米倉丹後正継之墓とほり付有之 土饅頭も墓木も無之 偶々近き辺りに一農夫の在りければ 若干の鳥目を与え何なりとも香花に代えて数本の供木を植付呉るやう只頼みければ 快く諾ひくれたれば嬉しく此処を辞して次ぎの遺跡に杖を移しぬ」とあり、この「藷山随筆」から米倉は馬防柵を突破して、織田陣内に突入して討死したことになる。
米倉氏は清和源氏に発し、新羅三郎義光の曾孫を祖としている。甲斐国東八代郡八代町米倉に住して米倉を称した。のち北巨摩郡武川に移り、武川州を束ね、武田信玄ご家老や軍法工夫の衆の一人であるとの記録も多い。開戦には秘策を練って馬防柵内に攻め込んだものと考えられる。
(東三河の史跡めぐりより)

米倉氏の源は清和源氏に発し、新羅三郎義光の曾孫、奈胡十郎義行を祖としている。十郎義行は上京して八条女院(鳥羽天皇皇女)に仕え蔵人となった。武田家の祖、太郎信義とは兄弟で米倉武田の両家は同根の間柄である。米倉姓を初めて称したのは奈胡十郎義行の孫、弥太郎信継であり、その十代の孫が丹後守重継(宗継、正継とも称す)となる。
米倉重継の事蹟として、天文21(1552)年信濃苅屋原の城攻めで鉄砲玉防御用竹束の盾を考案し戦果を収めた話は余りにも有名である。また今日に伝えられる書き物にも「米倉丹後守という弓矢巧者の武士よき工夫ゆえ」また「武田信玄公ご家老、軍法工夫の衆の一人」などと賞賛の記録も多い。このように重継は数々の功を重ね永禄7(1564)年甘利昌忠の没後は陣代として百騎を率いたと伝えられ、更にここ設楽原戦では二百騎を率いたともいわれている。
設楽原戦における重継の功績は、馬防柵を破ったことにあろう。金子藷山は「岩倉山の東北端、連吾川の右岸」で重継の墓石を見届けている。右岸は湿地帯でこれを越さなければ柵は破れない。塩山市恵林寺にある重継墓碑に刻まれている「梟将」「軍事に長けた巧者」の文字が人目を引く。また重継は30年余の戦歴を持つだけに、その場その場で機智に富む戦術を編み出したであろう。これらを考え合わせると破柵も重継なればこその感がする。
朝霧こめる設楽原に立った重継は、連吾川と湿地帯を隔てて間近に信長本陣茶臼山を望み、もちろん秘策を練ったことだろう。先祖同流で主家と仰ぐ武田家への忠勤、軍法巧者と称賛された実戦力、固い結束を天下に誇った武川魂、何ものにも屈しない気魄はは、一気に信長本陣への突撃だったとも考えられる。長篠城攻めでは採りあげられたという竹束戦術も、ここ設楽原では効かない。飛びくる銃弾、川、湿地に阻まれながらも見事奪柵を成し遂げた。まさに梟将、鬼神の技であったろう。
(設楽原戦場考より)

 



2012年05月04日

米倉丹後守正継之墓
戦後33年目に戦跡を巡歴した金子藷山の「藷山随筆」に「丹後守米倉子の墓は大宮郷の地内岩倉山の東北端にて連吾川の右岸へ半町ばかりの所に小さき野面石に米倉丹後正継之墓とほり付有之 土饅頭も墓木も無之 偶々近き辺りに一農夫の在りければ 若干の鳥目を与え何なりとも香花に代えて数本の供木を植付呉るやう只頼みければ 快く諾ひくれたれば嬉しく此処を辞して次ぎの遺跡に杖を移しぬ」とあり、この「藷山随筆」から米倉は馬防柵を突破して、織田陣内に突入して討死したことになる。
米倉氏は清和源氏に発し、新羅三郎義光の曾孫を祖としている。甲斐国東八代郡八代町米倉に住して米倉を称した。のち北巨摩郡武川に移り、武川州を束ね、武田信玄ご家老や軍法工夫の衆の一人であるとの記録も多い。開戦には秘策を練って馬防柵内に攻め込んだものと考えられる。
(東三河の史跡めぐりより)

米倉氏の源は清和源氏に発し、新羅三郎義光の曾孫、奈胡十郎義行を祖としている。十郎義行は上京して八条女院(鳥羽天皇皇女)に仕え蔵人となった。武田家の祖、太郎信義とは兄弟で米倉武田の両家は同根の間柄である。米倉姓を初めて称したのは奈胡十郎義行の孫、弥太郎信継であり、その十代の孫が丹後守重継(宗継、正継とも称す)となる。
米倉重継の事蹟として、天文21(1552)年信濃苅屋原の城攻めで鉄砲玉防御用竹束の盾を考案し戦果を収めた話は余りにも有名である。また今日に伝えられる書き物にも「米倉丹後守という弓矢巧者の武士よき工夫ゆえ」また「武田信玄公ご家老、軍法工夫の衆の一人」などと賞賛の記録も多い。このように重継は数々の功を重ね永禄7(1564)年甘利昌忠の没後は陣代として百騎を率いたと伝えられ、更にここ設楽原戦では二百騎を率いたともいわれている。
設楽原戦における重継の功績は、馬防柵を破ったことにあろう。金子藷山は「岩倉山の東北端、連吾川の右岸」で重継の墓石を見届けている。右岸は湿地帯でこれを越さなければ柵は破れない。塩山市恵林寺にある重継墓碑に刻まれている「梟将」「軍事に長けた巧者」の文字が人目を引く。また重継は30年余の戦歴を持つだけに、その場その場で機智に富む戦術を編み出したであろう。これらを考え合わせると破柵も重継なればこその感がする。
朝霧こめる設楽原に立った重継は、連吾川と湿地帯を隔てて間近に信長本陣茶臼山を望み、もちろん秘策を練ったことだろう。先祖同流で主家と仰ぐ武田家への忠勤、軍法巧者と称賛された実戦力、固い結束を天下に誇った武川魂、何ものにも屈しない気魄はは、一気に信長本陣への突撃だったとも考えられる。長篠城攻めでは採りあげられたという竹束戦術も、ここ設楽原では効かない。飛びくる銃弾、川、湿地に阻まれながらも見事奪柵を成し遂げた。まさに梟将、鬼神の技であったろう。
(設楽原戦場考より)

 

 
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