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山梨県甲府市

要害城

2013年12月28日

要害城本丸は四方を大きな土塁で囲まれています。
要害山城の本丸。四方を大きな土塁で囲まれています。 - Spherical Image - RICOH THETA


2013年06月29日

要害城全景

 川田の館から甲斐府中への移転を決めた武田信虎は永正16(1519)年夏頃から新館の建設に取り掛かり12月に入居しているが、自らが移転するだけではなく服属する国人達にも移住を強要した。これに対して栗原、大井、逸見氏ら有力国人が反乱を起こすが、信虎は1日に3ヵ所で戦って全て打ち勝つという力の違いを見せつけた。
 国人建ちの反乱を制圧した後の永正17年6月晦日、詰城として要害城築城に着手した。居館と詰城をセットで建設するのは当時の通例のパターンである。防衛のための詰城(山城)の築城を急いだのは、反乱に呼応して甲斐に侵入した駿河勢に対処するためであろう。8月10日には城主として駒井昌頼が任じられている。
(『武田信玄を歩く:秋山敬』より)

要害山中腹から見上げた空

 要害城への登り口は、積翠寺の北にある要害温泉の前からである。標高770メートルの山頂まで30分ほどだが、途中の尾根には削平された郭が続き、頂上の主郭部は東西73メートル、南北22メートルほどで、周囲を土塁が囲む。頂上から足下に見える館とその先に広がる甲府盆地の眺望は素晴しい。
 遺構は主郭から更に南東の尾根に続き、防衛機能を高めている。実際に利用された記録は福島正成乱入時のみだが、その後も詰城として維持され、長篠の合戦に敗れた翌年の天正4(1576)年、侵攻される危機を予測したためか帯那郷(甲府市)の住人を動員して城の修築を行っている。
  天正10年の武田氏滅亡後も館と共に使用されており、廃されたのは甲府城築城後の慶長5年のことという。
(『武田信玄を歩く:秋山敬』より)

門跡

 積翠寺から登っていくと最初の関門(虎口)は石塁の二段構えですこぶる壮大厳重につくられている。その上に一般に不動曲輪と呼ばれる武者溜り風な広い曲輪があるがこれがおそらく三の丸にあたるであろう。
 そこを更に登ると水の手曲輪と呼ばれる、諏訪水のある帯曲輪に出るが、登り口はしかし東側を巻き込み登るようになっており、段々になった幾つかの腰郭と門址を過ぎるとその上に二の丸と呼ばれる広い郭が削平されている。ここからの登り口も全て東側で、本丸までには4つの関門を設け、尾根を切る堀切もあり、防衛は複雑に展開している。
 この防衛施設を登り切るといよいよ本丸である。長方形で東西に延びる長軸は66.9(土塁外側で73)メートル、周りは土塁で囲まれ庭石なども現存する。特に北側の側面の防衛が厳重で三段の帯曲輪がついている。
 本丸の東側は山形が急激に落ち込むが、この防衛は4〜5の郭と、尾根を切る堀切を設け、東方先端に望楼を1つ設けている。本丸に立って眺めるとその規模は雄大で縄張りの複雑巧妙さは防衛を主力に抜群なものが見られる。
(『武田信玄城と兵法:上野晴郎』より)

本丸

 標高775メートルの丸山は東西に長く延び、その城域はおおよそ650メートルに及ぶ城郭であり、築城時期を異にすると思われる南側の出城を合わせると県内随一の規模を誇る山城である。全山に石積みを施した形跡があり、今日でもいたるところで確認することができる。ただ石積みの形態でやや異なった点も指摘できることから、天正年間に徳川方の大規模な補強工事が実施されたことは明らかであり、これによって縄張り自体も変わっていることが予想される。
 要害山城は東西70メートルの本丸を中心に、西方の山麓に向かって厳重な防衛態勢をとり、反対の東方は尾根続きとなるので土橋により連絡路を最小限にとどめている。山腹に対する処理の仕方は主に竪堀によってなされており、本丸から東方に関しては腰曲輪が存在しない。
 山麓から本丸への通路は1本だけであり、虎口から次の虎口に至る間に曲折を用い、寄せ手に対する側面攻撃のパターンが連続する。そのため山頂まで登るのに見た目より時間がかかることに気づく。わずかに部分的な破壊もあるが、機能的な面から判断することにより、ほぼ完璧な状態で当時の通路をたどることが可能である。
(『戦国武田の城:中田正光』より)

 



2012年04月15日

要害城本郭全景

本郭の土塁

本郭の土塁

甲斐国志に、「今ハ塁壁荒レ荊蕀塞路、西南ヨリ登ルニ腰曲輪、帯曲輪ノ類段々重リ、本丸ノ長三拾九間、二ノ丸、三ノ丸ト云アリ、絶頂ハ山背東ヘ続キ、北ヘ曲ル、其間ニ掘切ノ跡モ有リ」と見える積翠寺要害城は、武田信虎が甲斐国内を統一し、名実共に戦国大名として勇躍しようとする永正17年に築かれた城である。居館の方はその前年の同16年に躑躅ヶ崎に築かれており、居館-詰城をセットとした戦国時代の典型的な城郭形態をとっている。
高白斎記の永正17年6月の条に、「晦日積翠寺丸山ヲ御城ニ被取立普請初ル。6月朔日信虎公丸山ノ城ニ御登リ。香積寺ニ被下」と見え、築城年代の確実な新付城、躑躅ヶ崎の館と共に甲斐城館研究上、貴重な資料の一つに数えあげられている。また本城は保存状態も良好であり、中世山城の様相をよく伝えている。
城主は高白斎記の大永元(1521)年8月10日の条に、「昌頼丸山ノ城主ニ被仰付」とある。文中の昌頼については明らかではないが、甲陽軍鑑や甲斐国志に石水寺定番に駒井次郎左衛門とある。
築城の翌大永元年、甲斐国は駿河今川氏の属将福島正成の侵攻を受ける。この時、懐妊中の武田信虎夫人がこの城に非難し、嫡子晴信を生んだという。武田時代に本城が実用に供された記録はこの時のみである。
下って長篠の役の翌天正4(1576)年6月1日、武田勝頼は帯那の郷の村役人宛に人夫催促状を発行し、本城の修築を命じている。17歳以上60歳までの男子を毎月3日ずつ本城の修理に参加させようとするもので、この書状によって長篠の役以来の戦況をにらみながら、急遽本城の整備に着手した様子がうかがえる。
天正壬午(1582)の役後、この城は駒井右京・日向玄東斎・同半兵衛らが御番を務め、また加藤遠江守光泰が修復したことが記録に残されている。甲斐国志も旧記の引用として同様のことを記し、また「慶長5年ノ後ワリ壊ス」と廃城の時期もあげている。
いずれにせよ、武田信虎によって構築されてから韮崎新府城に移るまでの間約60年にわたり、甲斐武田氏の本城として、また躑躅ヶ崎館と一体となって名実共に領国経営の本拠地の地位を保っている。武田氏滅亡後も甲府城が完成するまでは躑躅ヶ崎館と同じように、なんらかの形で存続使用されたことは想像でき、甲斐中世城館跡の中でも比較的命脈を保った城と思われる。
(日本城郭大系より)


門跡

門跡

この城は地形に制約されるように、傾斜面を利用しつつ郭を連続的に配置し、その間に竪堀・堀切を組み合わせている。郭と通路を巧みに配置することによって防御上の堅固さをつくり出していることが特徴的であり、連係した郭の間には工夫された門が設置されている。
虎口に至るまでに急斜面の登り路を警固するように帯郭的な細長い郭が散見できる。ここから遠方の眺めは大変良く監視に適している。
虎口は二段構えになっている。第一の門は直線的に登りつめる中途に設けられており、これは石積みによって確認できる。第二の門は直角に屈折する箇所に設けられており、残存する石積みや土塁からもその堅固さが理解できる。
ここを入ると武者溜り的な空間地がある。これより上方は通路と土塁と門と郭によって折り重ねるように厳重に防備され、頂上部の主郭に入ることができる。その巧みな配置は敵の侵入を容易に許さず、守り第一の様相がうかがえる。
(日本城郭大系より)

石積み

石積み


本郭の奥にある掘切


不動曲輪


根古屋の由来
要害城の一郭であるこの辺りは、昔から根古屋と呼ばれ、要害城とその外城である熊城の警護に当たった武士の館が存在していたので、この地名がついたと伝えられている。
戦国時代、このような場所を、別に根小屋、寝小屋、根固屋などと呼称したとも言われているが、当地では根古屋を使用している。また要害城と熊城の間に「水の手」と呼ばれている城にとっては重要な水源があり、この湧水の管理にも当たっていたと伝承されている。
なお、この要害城は、熊城とともに緊急の場合の詰城として、永正17(1520)年信虎によって築かれ、以来、武田三代にわたって使われたもので、保存状態も極めて良好であり、国の史跡に指定されている。
(看板資料より)

日枝神社

 


2001年02月18日

朝4時に藤沢を出発。出発する前に駐車場の車の中でとりあえず要害山に行くことに決めていざスタート。寒川、厚木、相模湖、中央高速、甲府と、かなりゆっくりと時間をかけて要害山に到着しました。
要害山の入口には駐車場がなく、ホテルのオヤジに相談したらちょっと下にホテルの駐車場があるのでそれを貸してもらうことにして朝6:30登山開始です。

要害城は、永正17年(1520)に武田信虎が築いた山城です。居館と政庁を兼ねた武田氏館に対し、緊急時に立てこもる詰の城としての役割を担っていました。信虎・信玄・勝頼と三代にわたって使用され、武田氏滅亡後も修築・再整備されました。
城は山腹から主郭にいたる通路に沿って、枡形虎口や郭が複雑かつ連続的に付設されているほか、竪掘や堀切を要所に設けて防御を固めています。山頂の主郭には規模の大きな建物が存在したものと推定されます。
南東尾根上には支城の熊城があり、深い堀切で区切られた連続的な小郭と畝状竪掘が特徴的です。また麓には根古屋の地名が残り、城番を勤める武士の屋敷が想定されています。要害城は熊城とともに遺構の保存状態がきわめて良く、記録が豊富に残されているなど、戦国期の山城の様相を今日に伝える貴重な山城です。
(看板資料より)

要害山


竪掘跡


土塁


不動曲輪からの甲府盆地。

中央やや下に見える森は武田神社であろう。


不動曲輪にある武田不動尊。
江戸時代後期に作られたもの。


門跡

不動曲輪から頂上の主郭部までは多くの門跡や曲輪跡があった。中腹より上にはまだ雪が残っていて歩きにくかったが、それでも約30分で頂上に到着した。


頂上から富士山が見えた。


頂上の主郭部の奥に堀切跡があった。


武田信玄公誕生の地の碑
(東郷平八郎書)


7時過ぎに太陽が昇り始めた。


積翠寺

 

 
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