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    長野県飯田市

座光寺南本城

2008年11月02日

本曲輪

南本城Q&A
Q:特長は?
A:南本城は、尾根全体に城郭遺構が往時の姿を多く残す県内有数の貴重な城郭です。座光寺小学校付近の北本城は居住的要素が強いのに対して、この南本城は「防御専一」に築城されたとみられています。平成19年に飯田市史跡に指定されました。
Q:いつごろ誰が?
A:約400年前、戦国時代末期の天正10(1582)年に織田信長の信濃侵攻に備えたもの、その後徳川家康の下で豊臣政権に対抗して構築されたもの等諸説ありますが、これを裏付ける史料がありません。
Q:城跡にはどんなものがあるの?
A:「城」といっても天守閣のような建物があったわけではありません。自然の地形を巧みに取り入れた山城です。土塁(盛土壁)や空掘(切土)が見られます。代表的な4つの曲輪(兵が待機する陣地)として、本曲輪、北曲輪、南曲輪、西曲輪があります。
ある緊急事態に対して短期間に一気に築城されたと考えられ周囲を土塁で取り巻く本曲輪を中心に、幾段にも続く腰曲輪や堀切、土橋、竪堀によって仕切られた小さな曲輪がいくつも構築されるなど、全域防御施設の固まりで、とても攻めにくい構造のお城となっています。散策の途中に地形をよくご覧ください。
Q:地域とのかかわりは?
A:江戸時代の記録によれば「本城山」と呼ばれており、城跡にある杜の祭礼の記録があるほか、明治時代には「本城下草刈入札記録」があり、古くから薪拾い、芝刈りの森として地域住民に親しまれてきました。
また江戸時代から秋葉社、伊雑皇大宮(御鍬社)、浅間社、豊川稲荷、古賀比(蚕飼)神社といった小祠がいくつも祀られていました。イナリ塚、小高稲荷社もあり、南本城の山道は「イナリ坂」とも言われ、地域の主要な道であったとみられます。城跡には現在でも社の跡が数多く残されています。
(看板史料より)

城は二つあり、一つは北本城という。もう一つは南本城という。北本城が先に築かれ、応永年中に南本城も築城された。天正10(1582)年織田信長のために、両城とも落城したと伝えられる。
(長野県の武田信玄伝説より)

本曲輪

麻績神社の裏山に座光寺南本城があるとのことで今回立ち寄りました。現地には遊歩道が複雑に張り巡らされていますが案内板が整備されているので道に迷うことはないと思います。各曲輪などの遺構がしっかりと残されており、規模も大きかったです。本丸跡もかなり広いところで土塁なども残っていました。

東の曲輪

麻績神社の前で掃除をしていた方に北の城もあるのか聞いてみたところ、北の城が本城で南の城は支城なのではないかとのことでした。北の城は今は小学校になってしまって堀などは埋められてしまっており、南の城の方が遺構が残っているとのことでした。
お話しを聞かせてくれた方は旧座光寺麻績学校校舎の関係の方らしく、私が横浜から来たことを告げると校舎を開けて案内してくれました。

彼の話によると、
校舎はもともとは歌舞伎の演舞場として作られたこと。
伊那谷には歌舞伎や人形浄瑠璃などの文化が沢山残っていること。
特に興味深かったのは人形については阿波から伝えられたとのことで阿波の人達との交流があったこと。
伊那谷の人にとって武田信玄は侵略者ではあるが武田贔屓の風土があること。
武田信玄は三方原で徳川家康を打ち破ったが、長篠では織田信長の鉄砲隊に負けて滅んだとのこと。
などでした。

武田信玄が長篠で負けたというお話しを聞いて驚きました。長篠には信玄塚というものもありますが、武田勝頼ではなく、武田信玄が敗れたという情報が流れてきて今でもそういう伝承が伝わっているのかなと思いました。
それだけ、世間では当時武田信玄が死んだのか生きているのか未だにはっきりしおらず、織田信長は武田信玄に勝ったということを最大限宣伝して戦国最強武田軍も恐るるにたらずとしたかったのかなと思いました。

それから人形浄瑠璃についてのお話も面白かったです。私は以前仕事でよく徳島に行っていたのですが確かに徳島には十郎兵衛屋敷などがあって人形浄瑠璃が盛んでした。また伊那谷には三好氏との交流を示す史跡などもあるとのことでしたので、きっとそういった文化交流の影響があったのかもしれませんね。

 

 
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