「道」(ドウ)という日本特有の文化ってありますよね。あれって絶対に我慢(忍耐)の世界ですよね。で、その中で意識を集中して曇りの無い精神を養って行くと言うモンなんだと思います。
だから、「道」の道は結果よりも過程に重きを置かれるものだと言われています。でもそうすると矛盾がありますよね。
華道にしても書道にしても武道にしても、実際は結果的に上手く出来た者や強い者が勝ち、という事になっていますモン。心に迷いが無く真っ直ぐだから結果を残せた、なんて綺麗事を言う人も居ると思うけど、やっぱし武道では運動神経、華道や書道では手先の器用さに優れている人が勝つモンですよ。
俺は小学校2年生から5年生まで書道を習っていました。
書道場の雰囲気というものを知っているでしょうか。
まず、書道教室(と言っても師匠の自宅の居間を使用するのだけど・・)の玄関で大きい声で挨拶をしながら中に入ります。ひとたび教室に入ると必要以上の事を話してはいけないので、皆シーンとして黙々と筆をすすめています。そして席に付くと道具を広げて準備を行なうのですが、この準備が結構大変なんです。
まず硯(すずり)という石で出来た器に市販墨汁を垂らし、固形の墨を市販墨汁に馴染ませながら硯に擦りつけて墨汁を濃くしていきます。本来は水の状態から固形墨を擦りつけて墨汁を作るらしいのだけど、素人がそれをやっていては準備だけで何時間もかかってしまうので、多少手間を省く為に料理で言うところの「味の素のコンソメ」に該当する市販墨汁を使用する訳です。しかしこの市販墨汁という物が実に良く出来ていて、一般的には通常習字で使用される墨の2〜3倍希釈になっています。つまり、市販墨汁はあくまでも手助けであって墨汁完全体にはなり得ないと言う事です。れっきとした濃さの墨汁にするには、精神を統一して固形墨を擦り続ける忍の心無くしては成り立たぬ、というメーカーの何とも中途半端な配慮が反映されている訳ですね。
素人レベルだと固形墨を擦る時間は10分から15分くらいです。面倒臭がって短時間で済ませると「文字が薄くなり幸も薄くなる」という安いダジャレをお見舞いされながら師匠に叱られます。
さて、墨汁に粘りを感じる様になったら完成です。師匠に準備が出来た事を報告し、その名の通りお墨付きを貰うと本日のお題として見本が渡されます。いよいよ筆入れに入る訳ですね。
えーと、これは現代においても変わらぬしきたりなのですが、書道においては1文字につき筆の墨付けは一度、という決まり事があります。この決まりが非常に厄介で、「大」という字を書こうとする場合なぞは問題無いのだけど、これが「空」という字レベルになってくると、結構墨の配分を考えないと下の「工」の辺りがかすれてきてしまうんです。
当時の俺の悩みは字の下手さもさる事ながら、この墨の配分が下手というところにありました。いつも最初の筆入れで一気に墨エネルギーを使い果たしてしまうのです。一般的に墨がかすれるというのはひとつの味なので、だから悪いという事ではないらしいのですが、俺達の師匠はこの「かすれ」を許さなかったのです。
その時も少しかすれた字で書かれた半紙を師匠に持って行ったのですが
「かすれているわね。良く考えてもう一度書いて御覧なさい」
と言われOKが貰えませんでした。OKが貰えないと帰る事が出来ないのです。そこで俺はシュークリーム大の脳みそで考え、少し力を抜いて書いてみる事にしました。すると見事に最後までかすれる事なく書ききれたんです。配分が成功した訳ですね。でもって得意になって俺は師匠に見せに行ったのですが、今度は
「力が全然入っていない。ダメ」
と言われました。どないせえっちゅうんじゃい。
今考えると、おそらく俺は筆を滑らす速度が極端に遅かったのだと思います。毎回一緒に通っていた友人はそんな事がないのに、俺の半紙の下の下敷きは墨が半紙を通り越しいつもグショグショでした。字の終わり頃に配分されるべき墨は下敷きに浸透してしまっていた訳です。それに気付かぬ当時の俺は毎度毎度、かすれずに書ききれる事を「道」の精神をもって神に祈りながら挑んでいました。
4年間書道を続けた結果、俺は段位でいうところの二段となりました。しかし字は相変わらず下手クソです。にも関わらず二段となったのは、やはり「道」の道は結果ではなく過程が重視されるから、と思うかも知れないですけど、昇段を決定するのは協会の人間です。協会の人間は日々の俺達の努力なぞ見ていません。お題目の書かれた半紙を見るだけです。果たしてその半紙一枚に迷いの無い心とか真っ直ぐな精神とかを見極める事が本当に可能だったのでしょうか。否。
毎月発行される書道の本に、昇級者、昇段者の結果が載せられているのですが、何故か毎回そこに載っている人達の多くは俺が通っている書道教室の生徒だったのです。
実は俺達の師匠は協会に顔が効く人物だった様です。これは根本的に「道」の精神から外れているとは思いませんか。清い心とか言いながらもその実裏社会はドロドロしていたんですよ。協会の人間達はそれをもって俺達の師匠に恩を売っていたんですね。俺達はその材料にされていた訳で、そこには道の精神もへったくれも無いんですよ。
そんな事も知らずに俺達は昇段しただの昇級しただのダメだっただのと一喜一憂してたんですよね。
はー、世の中のしくみって奴ぁなー。
前のページへ