それはまだ俺が小学校に入学する前の幼稚園児の頃の事。
当時、父親と母親の勤める会社の2階は親戚の家だった為、幼稚園を終えてから母親が終業するまでの間、俺はこの親戚宅に良く預けられていました。また、俺と同い年の従兄弟であるK君も両親が共働きだった為、俺と同じ様にこの親戚宅に預けられていました。従兄弟達の中ではこのK君という人物が俺にとっては一番の仲良しで、親が迎えに来るまで毎日の様に一緒に遊んでいたものです。
親戚宅は、翌年俺が入学する事になる小学校と小道ひとつを挟んで面していたのですが、ある時俺とK君がその小道でボール投げをしていた時にK君の放った球が大きく逸れて、小学校内にある用具室のガラスのひとつを割ってしまったのです。
ガシャーン、という大きな音と共に崩れ落ちる窓ガラス。
普通このような事をした時には大きく焦るものなのだけど、その用具室のガラスが結構古く薄汚れていたのが原因なのか、俺達は「大した事ねえや」と思ってしまったのです。それどころか、ガラスが割れていく様子にひとつの芸術的感銘を受けた俺達は、憑かれた様に残り全てのガラスを石で割ってしまったのです。
「スゲエ!」
「カッチョイイ!」
と全く自分勝手な言動を発しながら・・。
今考えると、ビル爆破や火事等、ひとつの物が崩壊していく有様に人間というものは何処か心を惹かれてしまう本能を持っているのだと思います。そういった本能がこの時に目覚めてしまったのかも知れません。器物破損に対して罪の意識がほとんど無かった俺達は、その時周囲への注意も完全に怠っていました。
大方のガラスを割りつくし満悦に浸っていると、俺の母親がその音に気付き会社から出て来ました。
「何やってんの!?アンタ達!!」
母親の怒鳴り声に俺達はビクッとし、この怒り具合をもって自分達の仕出かした所業がいかに反社会的行為であったのかを俺はこの時に初めて認識しました。俺達は最初母親に「俺達がやったのではない」と言い訳をしましたが、状況からしてすぐさま俺達の言い分が5歳児の戯言に過ぎないという事がバレてしまいました。俺達二人はしかる後に親戚宅のひとつの部屋に留置されました。その間に母親は小学校に謝罪をする為赴きました。用具室のガラスについては、俺達が割る前から数カ所の破損が認められ、また古い建物であるという事と、俺の父母の勤める会社の社長(俺の祖父)が、当小学校には以前よりあらゆる寄付を行ない顔が効いた事もあって、俺達は事実上無罪放免となりました。
しかし、だからと言って個人的な責任と感情が清算される訳ではありません。帰って来た母親は鬼の形相で、
「どうしてあんな事をしたの!? アンタ(俺)は来年この小学校に入学するんだよ!?その学校の物を壊すなんて!!」
と俺に説教しました。
この時俺は単純に学区が違うK君を羨ましく思ったものでした。
「アンタはもううちの子じゃないよ!今日帰っても家に入れないからね!覚悟しなさい!」
という言葉を残して母親は会社に戻って行きました。
夕方、親戚宅から自宅まで俺と母親は無言で帰りました。マンションのエレベーターを降り、自宅のドアの前に着いた時に母親が
「分かってんだろうね」
と言ってきました。
俺はグッと涙を堪えてドア前の共用廊下に腰を下ろしました。バタンと目の前で玄関ドアが閉まりカギが掛かる音がします。季節は夏だったので寒さに震える事は無かったのですが、心の中の寂しさは例えようのないものでした。
放置されて数分と経たずに堪らなくなった俺は玄関ドアを叩きました。
「もうしないから開けて!」
しかし家の中は無反応。
自分は見捨てられたのだとこの時本気で俺は思いました。普段は諦めの悪い俺なのだけど、この時は何故か『悪い事をしたのは自分なのだから仕方がない』と思ってしまい、無一文にも関わらず5歳児の俺は家出を決意しました。この年頃の子は親が全てなので、親から見放されるという事は世界から見放されるも同然だったのです。
が、家出といっても知らない所に行く勇気は無いので、俺は休みの日に父親と良く行った近くにある細長い公園に向かいました。
西日が沈むのは早いです。夕暮れの景色はアッと言う間に暗くなります。公園内に植えられている木々がお化けの様に見えて気味が悪い。しかし戻る事の出来ない俺は前に進むしかなかったのです。公園に面して国鉄が通っているので、時折走ってくる東海道線と横須賀線の車内照明が公園内を少しだけ明るく照らす度に俺はホッとしていました。暫く歩くと踏切があります。この踏切で、良く父親に肩車をされながら目の前を通る電車に夢中になったものでした。それを思い出した時、俺の胸には悲しみが込み上げて来ました。ガラス破壊行動を起こした後、俺は父親と会っていませんでした。父親も怒っている事でしょう。俺は重い足取りでまた歩き出しました。父親と共に散歩に出掛ける時は、公園の終わりまでに幾つもあるブランコやらシーソーやらの遊具を全て乗り倒しながら歩いていたのだけど、さすがにこの時の俺はそれらを眺めるだけに留まり、遊ぶ気にはなれませんでした。
公園の終点に着くと、ここには古い汚いトイレがあります。壁に魚だか鳥だかの生き物を模したモニュメントが数個くっついています。父親と一緒に歩く時は、木に覆われたそのトイレでいつも用を足していました。
気が付くと父親の事ばかり思い出している自分に気付きます。ここで俺は、好きだった父親に最後のお別れを言ってからこの地を去ろうと思いました(俺はホントに思い込みの激しいクールな子でした)。反面心の中で、父親なら俺の家出を止めてくれるかも知れない、と期待をしながら俺は自宅への道を戻る事にしたのです。
放置されてから2時間以上経過した後、俺は自宅マンションのドア前まで戻って来ました。しかしインターフォンを押すのには躊躇します。もう俺はこの家の子ではないのだから・・・。
するとマンションの廊下を父親が息を切らせてこちらに向かって来るのが見えたのです。父親は俺の前に立つと
「どうした? 何処に行ってたんだ?」
と聞いてきました。それが優しい声で怒ってはいないと感じた俺は
「ウギャー!」
と大泣きをしながら父親に抱き付いて行きました。その声に気付いた自宅内の母親が玄関を飛び出して来ました。
「アンタ何処行ってたの!?」
怒って言いながらも母親の表情はホッとしていた様に見えました。
俺が行方不明になった事を聞いた父親は仕事着のまま俺を探しに近所に出掛けたそうです。顔を埋めた俺の鼻に、建設業である父親の作業着に付着したホコリとアスファルトの匂いが入ってきたのを今でも覚えています。
その日、結果的に俺は許しを貰って自宅内に入れて貰えました。母親は多方面に電話をして俺が見つかった事を報告していた様でした。
これが俺にとって最初の家追い出され事件です。
それ以来、俺に放浪癖があると判断した母親は、俺が悪事を働いた時は玄関外ではなくベランダへ放置する事にしたのでした。しかし狂気のごとき大泣きをする俺の声を哀れに思う隣の家の奥さんがいつも
「許してあげて下さい」
と家に尋ねに来るので、以降極刑に値する所業を働かない限りは家を追い出される事は無くなったのでした。
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