沖縄旅行の2日目は朝から自転車をレンタルして「ひめゆりの塔」と「ひめゆり平和祈念資料館」、そして沖縄平和祈念公園内にある「沖縄平和祈念資料館」へ行って来ました。
かねてより初めて沖縄を訪れる際は、まずここに行きたいと思っていたので、その念願が果たせたのは良かったです。
ひめゆりの塔と平和祈念公園は沖縄のほぼ南端にあります。
那覇市の中心から20数kmの距離に位置しており、のんびり自転車で走ると1時間半ほどで着きます。
この日の沖縄は天気が良かったものの、異常な蒸し暑さだった為、サイクリングを行うコンディションとして決して良い条件とは言えませんでした。
走り出して30分ほどすると景観が今までの市街地とは変わり、さとうきび畑があちこちに見えて来る様になりました。
照りつける太陽の厳しさも相まり、この辺りに来て俺は初めて「沖縄に来ているのだ」と実感出来た気がしました。
しかし道幅が狭くなり坂も多くなった事で、自転車走行には結構注意が必要となってきます。
何本目かの坂を上りきった所にひめゆりの塔はありました。
入り口で献花用の花束が売っていたので、俺もそこでひとつ購入しました。
ひめゆりの塔は、当時最も多くの犠牲を出した伊原第三外科壕跡に立っています。
その横を抜けて行くと「ひめゆり平和祈念資料館」があります。
この建物は当時の学校をモチーフにして建てられたそうです。
俺はそれなりの覚悟をもって資料館の中に入りました。
ひめゆり学徒隊は、当時の沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の2校を合わせた生徒222人と教員18人によって編成されたものでした。
もちろん正式な軍隊ではありません。
その役割は、看護要員として救護所に運ばれてきた負傷兵の対応に当たる事や炊き出しの配送等の後方支援です。
米軍は、沖縄本島の中部に当たる嘉手納町に上陸後、その圧倒的な兵力を以って瞬時に首里城跡周辺を占領し、沖縄の日本兵力を南北へ分断します。
ここから米軍は北と南に侵攻を開始します。
ひめゆり学徒隊は南部に配備されていました。
しかし、各戦線で劣勢を強いられた日本軍がひたすら南方へ敗走していく事に合わせて、ひめゆり学徒隊も南へと撤退していくのです。
この頃になると、ひめゆり学徒隊は前線の兵士と行動を共にしており、米軍の放つロケット弾や機銃の雨の中をかいくぐって自然壕に避難した負傷兵の対応等に当たっていました。
とても後方支援などと言う生易しいものではなく、第一線の衛生兵と全く同じ任を負わされていたのです。
ところが敗色濃厚となったある日、沖縄南部の全部隊に解散命令が出されます。
それは、今後は自己の判断で逃げ延びろ、という何とも無責任な命令でした。
この命令から組織はガタガタになり、ひめゆり学徒隊の面々も訳が分からぬ状態でただ逃げ惑う事になります。
米軍の捕虜になる事は死よりも恐ろしい事と感じていた彼女達の中には、もう逃げ切れないと分かるや手榴弾を胸に抱いて自決したり、岬から身を投じて命を絶つ者も多く居ました。
沖縄戦において、ひめゆり学徒隊総勢240人のうち、実に136人が犠牲となりました。
と、言うのが史実上のひめゆり学徒隊の記録です。
しかし、このひめゆり平和祈念資料館では生き残った学徒達の耳をふさぎたくなる様な生々しい惨劇の証言を聞く事になるのです。
さっきまで話をしていた友人の、それこそ言葉そのままの変わり果てた姿を目の当たりにしなくてはならない衝撃。
そしていつそれが自分の身に起こるか分からないという例えようも無い恐怖。
全く先の見えない不安。
言葉では決して表現する事の出来ない、そんなあらゆる現実を15歳から19歳の少女達はいきなり受け入れなくてはならなかったのです。
資料館には、沖縄戦が始まる前の楽しい学校生活を送る学徒達の写真がいくつも展示されていました。
この時笑顔を見せている彼女達は、まさか数ヵ月後・数年後に自分達があの惨状の地に投げ出される事になるとは想像もしていなかったでしょう。
実際救護任務に就いていた彼女達の傷ついた服(防空頭巾にもんぺズボン)が人形に着せられて展示されていました。
背も低く肩幅も狭く、こんな小さな女の子達が恐怖と戦いながら正規の兵隊と同じ様に一所懸命戦地を走り回っていたのか、と想像しただけで俺は目頭が熱くなってきました。
記念館の最後に設けられた部屋は、犠牲になった学徒や教師合わせて136人全員の写真が壁に掛けられ、そのひとつひとつに彼女達の学校での活躍や性格等が記載されており、部屋の中央には戦地でのあらゆるエピソードを文書化した文献が幾つも並んでいました。
その数は100を超えていました。
それだけの数の悲惨な事実が現実として起きていた訳です。
「水をください」とか「お母さん」と言う友人の最期の言葉を、そばに居て聞く事となった学徒が残した記録の数々です。
壁に並ぶ犠牲者達の写真を見て、それぞれの人となりを読むと「活発でリーダーシップを発揮する子だった」とか「クラスの人気者だった」とか「バレエを趣味にしていた」とかが書かれていました。
全く普通の学生なんですよ。
特別に戦場で戦う事を訓練された子達ではないんです。
俺達が学生だった頃、周りに居た普通の学友達と何ら変わらないんです。
そんな戦争からかけ離れた生活を送っていた彼女達が戦場で命を落とす事になったのが沖縄戦なんです。
本来守られなくてはならない子供達が、どうして死ななくてはならなかったのでしょう。
犠牲者の写真殆ど全員を俺は目を通したのですけど、もう涙を抑える事は出来ませんでした。
周囲に誰も居なかったら声をあげて泣いていたと思います。
ひめゆりの塔から数kmのところに沖縄平和祈念公園と資料館があります。
この公園は良く終戦記念日等でテレビに映る公園です。
隣接している資料館の中に入ったのですが、ここもひめゆり資料館同様目を覆いたくなる様な写真や史実が展示されていました。
沖縄戦で犠牲になった日本人は18万8136人と公表されています。うち民間人は約10万人。
当時沖縄に住んでいた民間人は45万人と言われているので、実に4.5人に1人の民間人が犠牲になった事になる訳です。
広島と長崎の原子爆弾と、この沖縄戦での犠牲が、大東亜戦争における日本の本土決戦と言う最悪のシナリオを避ける事が出来た大きな要因だったと俺は思っています。
つまり彼らの犠牲によって俺達はこの世に生を受ける事が出来たのかも知れないのです。
それでも直接目の前で敵の銃弾に倒れる家族を見る事のなかった一部を除く本土の人達は、やはり何処かこの戦争に現実味を覚えていない様な気がします。
沖縄や原爆を軽く見ているとでも言いましょうか。
時の流れで当時を知る人が減ってきた事もありますが、戦争における前線の恐怖や残酷さ。犠牲になる何も知らない民間人の無念さと言うのは、敗戦国として決して忘れてはならない事だし、意識的にでも自分の中で色褪せさせてはいけないものだと思います。
そういった事に無関心だからアホな公人が「しょうがない」とか言い出すんですよ。
現場を知らない。前線を知らない。
所詮どんな綺麗事を言っても高みに居る人間は、いつまで経っても犠牲になった庶民の気持ちなんて分からないんです。
戦時において、権力を握る者ならば臆病風を吹かせて適当な言い訳をしてはその苦境から逃れる事も出来るけど、力の無いものはただただ「無駄死に」をするしか無いんです。
戦争は、何の罪も無い弱い者から犠牲になっていくのです。
この数時間は俺にとって自身の生き方をも考えさせられた貴重な時間でした。
その日、那覇市に帰って来たのは夕方前。
俺は夕食を摂ろうとゆっくり国際通りを歩いていました。
地元のカラーと言うのもあるのでしょうが、ここがあの戦火に巻き込まれた「国」で、30数年前まで米国の領土として現地の人達が虐げられてきた地域とは思えない程に街は明るく活気に満ちています。
しかし、国際通りから一本外れた昔ながらの商店街でお店を営む高齢の人達を見ると、心なしか表情に翳りがある様な気がしてしまいました。
でも、それは沖縄戦の悲劇の歴史を見て間もなかった事から俺の意識が勝手にそう思わせていたのでしょう。
過去に戻る事は出来ないし、過去に囚われていても先に進む事は出来ません。
でも、決して忘れてはならない心に刻み込んでおくべき過去というのがあるのもまた事実だと思います。
ただ、戦時の苦しみや貧困を知らない俺がこんな風に述べたところで、その眼で地獄を見てきた人達にすれば「何を言うか」と言った感じなのでしょう。
今を以っても口にする事を躊躇う様な出来事を経験しながら、それでもぐっと堪え、かつての敵であるアメリカ人や、自分達を見捨てたと言う感を否めない本土の人間達に優しく接している彼ら彼女らの心の奥底にある思いは、決して当事者でなくては計り知る事が出来ないでしょう。
大東亜戦争における日本側の最も犠牲を出した地。
そしてその当時の敵が今や日本にとって最も信頼している友好国。
現在は駐屯する米兵と地元民は密接な関係を持たざるを得なくなっています。
米軍基地があるからこそ文化や生活が成り立っていると言っても過言ではない沖縄県。
俺達には到底想像も出来ないジレンマを感じている県民も多い事でしょう。
これからもなかなか表に出る事の無い遺恨がいつまでもこの沖縄に残るのではないでしょうか。
でも、そんな犠牲を負った人達だからこそ平和への思いも強いと思います。
俺達以上に戦争の愚かさや悲劇を知っている人達に、俺達はこれからももっと色々学んでいかなくてはならないのだと感じました。
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