俺にとって大好きなサラブレッドを3頭挙げた場合、残りの1頭がテンポイントと言うお馬さんです。
でも俺がテンポイントのレースをしている姿をテレビで見たのはおそらく1回くらいです。
何せテンポイントが活躍していた頃は1975年〜77年なので、その頃俺はまだ小学3年生とか5年生でしたから。
ただ、その3年ほど前にあのハイセイコーが近所の大井競馬場を走っていたり、親戚の叔父さんが競馬好きだった事から、俺にとってサラブレッドは結構小さい頃から馴染みのある存在でした。
テンポイントはその栗毛の馬体の美しさから「貴公子」と呼ばれていたのですが、当時関西馬が関東馬に比べて圧倒的に弱かった事から「西の期待の星」とも呼ばれていたそうです。
そうは言ってもこのテンポイント、3歳クラシックレースの皐月賞・ダービー・菊花賞のどのレースにも勝っていません。
にも関わらず彼が有名なのは、ライバル視していた関東馬トウショウボーイの存在があったに他なりません。
「天馬」と呼ばれたトウショウボーイとテンポイントは6回直接対決を行なっていますが、うち4つはトウショウボーイが勝っています。
「1着もしくは掲示板に載るチャンスがあるから出走させる」という賞金第一主義の傾向にある今の競馬に比して、この当時は「アイツが出走するから走らせる」という、勝負にこだわった意気込みが強く出ていた時代でした。
例えばダービーに勝つ事が出来なかったアイドルホースのハイセイコーは、その時に負けたタケホープが出るレースに必ずと言って良いくらい出走させ、何としても勝とうとしていました。
同じ様にテンポイント陣営も、トウショウボーイに勝たなくては意味が無いと思っていた様です。
6度の対決において、テンポイントは菊花賞でトウショウボーイに勝つものの、この時は「T・T・G」と呼ばれた内の1頭のグリーングラスに1着を持っていかれてしまいます。
以降、テンポイントはなかなかトウショウボーイに勝つ事が出来ませんでした。
1977年の有馬記念を以ってトウショウボーイは引退する事になっていたので、テンポイントにとってこのレースが雪辱を果たす最後のチャンスでした。
この年の有馬記念のテンポイントとトウショウボーイ2頭によるデッドヒートレースは、今でも競馬ファンに語り継がれるほど歴史に残る名勝負だと言われています。
スタート直後からペースも何も無視して両者が頭を取ろうとし、そのつばぜり合いがゴールまで続きました。
結果、体半分の差でテンポイントがトウショウボーイより先にゴール板を通過し1着となったのです。
それまでテンポイント側はトウショウボーイをライバル視しながらも、世間的に彼はトウショウボーイの引き立て役としか見られていませんでした。
しかしこの有馬の激闘を制した事で初めてこの2頭は真のライバル同士であると認められたのです。
テンポイントは翌年の春より海外へ進出する予定だったので、最後の日本でのお披露目も兼ねた壮行レースとして、1月の日経新春杯というレースに出走しました。
ところがこのレースで彼は左後ろ脚を骨折してしまいます。
66.5kgという他馬より10kgも重い斤量であった事、有馬記念から1ヶ月足らずで出走させた事等が骨折の原因と言われています。
治る見通しの無い重度の骨折を負ってしまった場合、通常サラブレッドはその場で安楽死処分を受けるのですが、ファンの「テンポイントを殺さないでくれ」と言う熱い声や、新聞に掲載された際の反響があまりにも大きかったために、関係者は僅かな可能性にかける事にしました。
当時の医療技術では成功する確率がほとんど無いと言われていた手術に、33人の優秀な医師団が挑み奇跡的にもこれに成功します。
しかし、3本の脚で重い体重を支えるにはやはり無理があった様で、彼の健康な脚は炎症を起こしてしまいます。
その後も関係者はあらゆる処置をして何とか彼を生かそうと試みたのですが、骨折から約40日後、体力の消耗により衰弱死をしてしまいます。
その時の彼の体重は健康時の半分しかありませんでした。
貴公子テンポイントは、辛い闘病生活においても決して暴れる事なく、厩舎の人達の言う事を最後まで良く聞いていたそうです。
ここでは書きませんが、テンポイントには生い立ちにもひとつのドラマがあり、俺の様な競馬素人はこういうセンチメンタルな話にどうしても弱いので、ついそこに感情移入をしてしまうのですが、天馬トウショウボーイと互角に渡り合った彼は、サラブレッドとしてだけ見ても素晴らしい馬だったと言えます。
テンポイントが亡くなってから30年近くが経ちますが、今でも彼のお墓に花が絶える事は無いそうです。
北海道に行く機会があったら俺は何よりまずテンポイントのお墓に行きたいと思っています。
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