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長野県阿智村

赤子ヶ淵

2013年08月01日

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天正10(1582)年2月、織田信長は、宿敵甲斐の武田氏を討たんとして甲信攻略の兵を進めた。徳川家康との連合した大軍を進めて伊那谷へと侵入して来た。伊那の諸将中、南端に守備する吉岡城の下条氏、松尾城の小笠原氏はともに戦わずして投降してしまった。目前の2城があっさり織田方の手に落ちたのを見た飯田城の人達は大あわてだった。武田方より加勢に来ていた武将達も知らない間に高遠城へ向かって逃げてしまった。
飯田城主坂西織部亮も城を枕に討死すると悲壮な覚悟をしたが、重臣達にひとまず木曽谷へ落ち延びて再起をはかれと諌められて、わずかな手勢に夫人と幼児を伴って城を脱出した。市の瀬(飯田市)まで逃げたが、敵の伏兵に襲われて進むことができず、家臣の久保田・竹村の二人に、幼児延千代の将来のことを託して夫人と共に戦死した。この場所が今、勝負平と呼ばれているところである。
久保田・竹村のニ人は延千代を背負い、松川を渡り八丁坂を登り笠松峠を越して、よもぎ平の川下の馬越しで黒川を渡り、山路を南下したが、青立ちの沢に迷い込んでしまい、牧立の平に出た時は日暮れ近くであった。ここからは道もよく、間もなく清内路の鳩打の道へ出た。やれ、安心と思ったのも束の間、峠の方から敵方か人声が聞こえてきた。それ追手だと川端の岩陰に隠れた。けれどもその時には若君延千代は空腹と背負われて山の中をさまよっている中に最早や虫の息となり、用意して来た薬を飲ませたがついに息が絶えてしまった。
十六代三百数十年続いた飯田城主坂西家も、木曽山脈の中でうっそうたる大木に囲まれた場所ではかなく滅亡してしまった。
その後この辺りでいつも赤子の泣声がするといわれ、だれいうとなくここの渕を赤子渕、近くの山畑を赤子と呼ぶようになった。
(清内路村誌より)


当日は、阿智村役場から清内路支所に連絡してもらって、清内路地域観光ガイドグリーンツーリズムインストラクター「おらほの夢先案内人」代表の岡本さんに場所を教えてもらいました。林道の一番奥まで行ってしまうと車をUターンさせることができないので手前に少し広くなっている場所があることや、一番奥から歩いて約10分くらいで吊橋にたどり着くことができることや、その少し手前から下に下りていくことができることなどを事前に教えてもらうことができました。
吊橋は怖かったですが、赤子ヶ淵の豪快な急流を感じることができました。更に下っていく道も発見することができ、危険そうだったので無理せず足場の良さそうなところで写真を撮影したのでした。

 

 
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