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山梨県南部町

穴山信懸の墓

2010年03月22日

大福山建忠寺(廃)は、穴山第四代信懸を開基とする。
穴山氏の河内進出はさだかではないが、応永25(1418)年頃、三代信介の時であると考証されている。
信介の子、信懸は幼名を弥九郎といい、兄、乙若丸が早逝したため、穴山第四代を継承した。梅雪の曽祖父にあたる。
信懸在世の永正の頃は、本宗武田信虎による甲斐一国の統一を目指した悪戦苦闘の時期であったが、信虎に最も信頼され股肱として力を尽くしたという。
没年について国志では、延徳3(1491)年3月廿日としているが、同書の南部城跡の頃には「永正ノ頃ハ穴山兵部少輔信懸ノ本村ニ住スルコト見エタリ」とあり判然としないが、高野山成慶院武田家過去帳には、「永正癸酉(十年)五月廿七日卒」とあり妙法寺記及び菊隠録の記載もこれを裏付けているので、信懸の没年は永正10(1513)年と推定できる。
建忠寺を菩提寺とし、法名は建忠寺殿中翁道公大禅定門といい、当時の北裏手の山腹に建忠寺殿と刻んだ宝篋印塔がある。
なお、国志では、臨済宗下山南松院の末寺で、本尊は観世音菩薩、当国札所三拾三番のうち順礼第二拾八番の札所となっている。
明治8(1875)年、廃仏毀釈の災により廃寺となり、墓所も荒廃していたが昭和62(1987)年12月、町により整備されたものである。
古記録等はことごとく散逸しているが、位牌は中野松岳院に移されている。
(看板資料より)

建忠寺跡

 

・建忠寺の血せぎ
本郷の東組・治家の上手の南へ向いた丘に、草に埋まって穴山梅雪の曾祖父である信懸の墓が立っている。上部が欠けた大きな墓石には「建忠寺殿中翁道義居士」の文字が、深く刻まれている。信懸は八ヶ岳南麓の穴山から、富士川谷へ入部した穴山信介の子で、武田信昌、信縄、信虎の三代に仕え、永正10(1513)年に死んだ。時に武田家当主の信虎は家督を継いで6年目、19歳であった。信懸が仕えた時期の武田家の三代は、甲斐統一を目指す武田宗家と、これに対立する同族、他族との激しい内戦状態が続いていた。さらに、この状態につけ込んだ今川氏、北条氏の甲州侵入が相次いだ。こんな状態が信懸の死後も続いたが、河内に入部した穴山氏は、武田親族衆として常に武田宗家と一体となって活動した。
信懸の墓の東に南へ下る一本の細い堰があり「血せぎ」と呼ばれている。雨が降るとこの堰が真っ赤な流れに変わることがあり、昔から里の人は「これは、戦いで死んだ、墓主の家来たちの亡霊が流す血だ」とおそれた。夜、墓のあたりから「鯨波の声」のようなうなり声がわき上がることもあったという。信懸の墓の前に立つと、目下に建忠寺廃寺跡が円形に拡がり、その前面を美しい茶畑が覆っている。その中に東に向けて伸びる大門道跡や点々と立つ石塔などが見え、茶が埋める池の跡であるくぼ地が見える。このあたり一帯の茶畑から目を西の緑濃い山々へ移すと、穴山氏のこの地域での茶栽培や「山作り」(植林)、成島新地の開拓のことなどがしのばれる。東南の方に目をやると、信懸の孫で梅雪(信君)の父である信友の眠る御崎原、円蔵院を包んだ森が見える。
(山梨県の武田氏伝説より)

・穴山信懸の墓
信懸の墓は廃建忠寺の北裏手の山腹にある。
(山梨県の武田氏伝説より)

 

 
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