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静岡県静岡市

愛宕山城

2014年12月21日

愛宕山城は今川氏時代の駿府の町々を北方より侵略する敵に備えるような位置にあって、その外周の有渡山と西奈郷の山々の間を通して、北方に江尻の町及び今川氏時代の主要港「江尻港」を城山の頂から望むことができる。
また西に目を転ずれば、今川氏歴代の居館であった府中館の詰城である賤機山城と相対している。当城の城名は伝わらず、ただ「駿国雑志」所収「城塁記事」に長沼塁と記され、また「駿河志料」には茶臼山砦といい、「愛宕神社、東の尾上なり」と記されている。
永禄11(1568)年12月、今川氏真は庵原郡の興津河原において甲斐の武田信玄に敗れ、駿府を捨てて遠州掛川に敗退の後、武田氏は愛宕山城を陣所とし、北方の敵、小田原北条氏の侵攻を警備した。
愛宕山城は、静岡市内における城址のうち、特に遺構を現在まで完全に残す点で丸子城に次ぎ、また県内における数少ない今川氏築城の遺構を伝える城でもある。
(日本城郭大系より)

愛宕山は古来より山岳信仰の神体山として庶民の信仰を集め、更には徳川家康が駿府城の鬼門除けとして山城国愛宕山権現から馬に乗った将軍地蔵を勧請し辰年、巳年の守護神として崇敬が篤い。
2月24日の例祭には早朝より花火を打ち上げ、参道手前には露店商が並び登拝する参拝者には社務所で甘酒が振舞われ又、福引の楽しみもある。
男子小学生がお供物係を勤め、女子小学生が浦安の舞を奉納する。
祭典は5年毎に輪番奉仕するので小学生は皆初めてであり、心の中に一生の思い出として残るであろう。
(看板資料より)

三の曲輪

三の曲輪下の堀切

二号堀

竪堀



2012年02月19日

愛宕山城は今川氏時代の駿府の町々を北方より侵略する敵に備えるような位置にあって、その外周の有渡山と西奈郷の山々の間を通して、北方に江尻の町及び今川氏時代の主要港「江尻港」を城山の頂から望むことができる。
また西に目を転ずれば、今川氏歴代の居館であった府中館の詰城である賤機山城と相対している。当城の城名は伝わらず、ただ「駿国雑志」所収「城塁記事」に長沼塁と記され、また「駿河志料」には茶臼山砦といい、「愛宕神社、東の尾上なり」と記されている。
永禄11(1568)年12月、今川氏真は庵原郡の興津河原において甲斐の武田信玄に敗れ、駿府を捨てて遠州掛川に敗退の後、武田氏は愛宕山城を陣所とし、北方の敵、小田原北条氏の侵攻を警備した。
愛宕山城は、静岡市内における城址のうち、特に遺構を現在まで完全に残す点で丸子城に次ぎ、また県内における数少ない今川氏築城の遺構を伝える城でもある。
(日本城郭大系より)

愛宕山は古来より山岳信仰の神体山として庶民の信仰を集め、更には徳川家康が駿府城の鬼門除けとして山城国愛宕山権現から馬に乗った将軍地蔵を勧請し辰年、巳年の守護神として崇敬が篤い。
2月24日の例祭には早朝より花火を打ち上げ、参道手前には露店商が並び登拝する参拝者には社務所で甘酒が振舞われ又、福引の楽しみもある。
男子小学生がお供物係を勤め、女子小学生が浦安の舞を奉納する。
祭典は5年毎に輪番奉仕するので小学生は皆初めてであり、心の中に一生の思い出として残るであろう。
(看板資料より)

愛宕山城構図

 
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