←前のページ トップページ↑ 次のページ→

愛知県新城市

馬防柵

2006年05月05日

馬防柵は柳田前激戦地から更に西に進むと向って右側に見えてきます。そこに向って入って行ける道があるので車で行くことができます。馬防柵は三段に渡って構築されていたとのことですが再現されているのは一段のみです。かるたでつづる設楽原古戦場によれば、馬防柵構築奉仕作業により、昭和56年に第一期構築として織田陣、続いて昭和58年に第二期構築として徳川陣の馬防柵の再現を実施したとのことでした。
馬防柵は設楽原合戦の象徴的な史跡であり是非寄りたいところだと思います。織田信長は多量の柵木が現地で準備できないかもしれないと思いわざわざ岐阜から多くの柵木を運んできたとのことですが、ずいぶん前から武田勝頼対策の作戦を考えていたのですね。

 



2003年10月12日

天正3(1575)年「設楽原の戦い」に用いられた馬防柵を再現したものである。連吾川に向かって右側の下手に徳川軍のものを、左側の上手に織田軍のものを、区別して構築してみた。両者の様式には、攻口(出入り口)の設け方に違いが認められる。
当時、天下無敵とうたわれた武田の騎馬隊をこの柵で防ぎ止め、その内側にあって鉄砲でねらい撃ちにするために造られたもので、延長2粁(キロメートル)に及んでいた。決戦の正面となったこの連吾川沿いに三重の柵を構え、背後のの弾正山を越えた西側を流れる大宮川沿いには、さらに一重の柵を設けて万一に備えていた。
織田・徳川連合軍にとっては、勝利を呼ぶ重要な布石であり、逆に武田軍にとっては、勝利を阻む痛恨のしがらみとなったのである。
(看板資料より)


「えんえんと柵木岐阜よりかつぎくる」
(設楽原古戦場いろはかるた看板資料より)

名和式「鉄砲構え」
天正3(1575)年新暦の7月9日、織田信長・徳川家康軍が、武田勝頼軍との設楽原決戦に備えて構築した「鉄砲構え」乾掘と馬防柵と銃眼付きの身がくし(土塁)の三段構えであった。古文献と時代考証による復原である。
(看板資料より)

設楽原歴史資料館から連吾川を渡って柳田前激戦地を通過してすぐに右に入る道があり、案内看板もあるのですぐに分かると思います。上の馬防柵の写真は柵の外側から撮ったものですが、内側から武田軍の陣地を見ると天王山の内藤昌豊の陣地付近を見ることができ、思ったより近くて驚きました。両軍の陣地はかなり接近していたようです。たとえ鉄砲を持って柵に守られていたとしても、戦国最強武田軍団を目の前にしてその恐怖心は物凄かったような気がします。逆に武田軍はなぜ柵に向かって無謀な突進を繰り返したのでしょうか?

 


1999年11月23日

織田・徳川連合軍と武田軍は連吾川をはさんでお互いに対峙したが、連合軍側は馬防柵を設置して武田の騎馬隊の突撃を防いだといわれている。その馬防柵が連吾川に復元されていた。織田方と徳川方ではその設置方法が異なっていたらしくその様子が復元されていた。


 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→