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福井県小浜市

佛国寺


2009年08月13日

武田元信は父武田国信以上に公家と交わり、飛鳥井兄弟をはじめ、三条西実隆らとの交流があった。文亀2(1502)年6月20日、段銭賦課などの重圧に耐えかねた国衆・百姓らはついに蜂起し武田氏館を攻撃、一族の武田持明同子弥五郎らを攻め殺してしまったのである。
武田信賢・国信が狙った戦国大名への道は元信の代では完全に挫折しており、それどころか領国支配すら思うにまかせなかった。彼は常に京都にあって幕府の意のままに動いていたが国一揆で一族を討たれるという状況では帰国もやむを得ず、永正元(1504)年12月若狭へ入り態勢の立直しをはかった。しかし一族逸見氏の不満や、国衆・百姓らの武田不信は根強かった。こうした不満の解消として彼は丹後侵攻を計画したのであろうか。あるいは応仁・文明の乱で果せなかった丹後支配を狙ったのか、元信は綿密な計画と武力を編成し永正3(1506)年7月末頃から丹後に侵入、8月2日には本隊は天橋立辺りまで攻め込んでおり、翌日一色氏と合戦。武田方は数百人討たれたという。翌年細川政元自らが若狭へ下向、5月には武田支援のため細川澄之も丹後に入った。幕府総がかりの丹後攻略であったが5月11日武田・細川連合軍はまたしても一色氏に敗れている。その後細川政元が暗殺されるなどし、武田元信の丹後攻略は失敗した。
その後も武田では逸見対粟屋、一色では延永と石川の反目があってその抗争がそのまま叛乱に結びついたのであった。武田元信は越前朝倉氏に応援を求めようやく鎮圧している。大永元(1521)年10月武田元信は花山大納言を通じて禁裏北門修理料五千疋を献上、これにより同月10日ついに従三位に上階した。守護大名としては異例の叙爵であったが、同年12月3日逝去し、武田元光が跡を継いだ。
(高浜町誌より)

武田元信の墓(右側)

安芸・若狭武田一族によると、仏国寺には武田系図(仏国寺本)が保存されているが、これは武田本家最後の当主、若狭8代目の武田元明の遺命によって納められた。その関係から元明の子と称する木下勝俊(長嘯子)の子孫によって元明の五輪の塔が元信の墓域に新設されたとのことです。上の写真で向って左側が武田元明の供養塔と思われます。

木下勝俊
1569(永禄12)年、若狭守護武田義統の子元明と伊賀守晴員の娘との間に生まれた勝俊は4歳で豊臣秀吉の妻ねね(北の政所)の兄、木下家定の養子となりました。父元明が1582(天正10)年信長に滅ぼされたのち、秀吉の小姓となり、1593(文禄2)年11月に小浜領主となりました。関ヶ原の戦いで伏見城を預りますが、弟秀秋の攻撃を受けて伏見城を抜け出し改易されました。その後、京都東山三本木の北の政所を頼って高台寺で木下長嘯子と名乗り隠棲し、1649(慶安2)年亡くなりました。隠棲中は茶を千利休から習い、細川幽斎や林羅山とも交流して和歌をたしなみ、「挙白集」を編んで、近世和歌の大家として著名になりました。
(看板資料より)

 

 
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