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愛知県豊田市

武節城

2004年12月12日

武節城址
別名地伏城とも呼ばれ、永正年間に田峯の菅沼定信により築城。弘治2(1556)年信州の下条氏の侵略を受ける。天正3(1575)年長篠の戦いで敗れた武田勝頼は、敗走の折り、この城で休息し、梅酢湯を喫して甲州に帰っていったと伝えられる。
同じ年、徳川家康の軍勢に攻められ、徳川方の領地となり奥平信昌に与えられる。天正18(1590)年、徳川家康の関東移封とともに廃城。
今でも麓には「大門」、「屋敷」、「古町屋」など当時の地名が残る。
(看板資料より)

武節城址 稲武町指定史跡
この城は、名倉川を臨む断崖上にあり、段戸山系に続く尾根の先端を堀切って男山とし、これに主たる郭4、従たる小郭10数箇所を配した郡内では有数の平山城であります。麓には関屋、古町屋(市場)、姫井戸など当寺からの地名が残っています。
一名地伏城とも呼ばれるこの城は、永正年間に田峯の菅沼定信の支城として築かれ、菅沼十郎などの城代が置かれました。
弘治2年下条信氏の侵略を受けて激戦がありました。また、元亀2年、武田信玄の三河侵入のときは本城である田峯とともに戦わずしてその軍門に降りました。天正3年、長篠で大敗した武田勝頼はこの城で梅酢湯を喫し甲州に帰ったと伝えられています。越えて7月、酒井忠次に攻略され、奥平信昌の領に加えられましたが、天正18年、徳川家康の関東移封とともに廃城となりました。
(看板資料より)

稲武町役場から道の駅へ向う途中のトンネルの上の山の部分が武節城になります。役場には誰もいなくて駄目でしたが道の駅には観光案内所もあったので、武田信玄ゆかりの史跡や、武節城のことについて聞いてみましたが、ここにいた方は詳しいことは分からないようで、何ヶ所かに電話で聞いていましたが、今日は大きな葬式があってみんなそれに参加していそうで会ってお話を聞くことはできませんでした。話によれば武田勝頼が長篠で大敗した帰路に武節に立ち寄ったことを由縁に勝頼に関わるお祭りを企画中とのお話を聞くことができました。こういう企画は是非実現に結び付けてもらいたいものです。ここでは場所だけ確認して早速現地に行ってみましたが、一番上まで車で行くことができるので楽チンでした。大きな駐車場とその上には神社があって、駐車場の隅に「武節城」の石碑が立っていました。幾つかの曲輪の跡のようなものも見受けられましたが、お墓や、ゲートボール場などになっており、住民の生活の一部になっているようでした。

 

 
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