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静岡県磐田市

挑燈野

 
2013年12月31日

今から400年以上前の戦国時代の終わりの頃のことです。戦いに敗れ退却した徳川軍は、当時万能村といったこの辺りで、武田軍に追いつかれそうになりました。
そこで、周囲の地形に詳しかった徳川家康は、夜になったことを利用し、提灯の明かりで武田軍を「ゆるぎ」とよばれる深田におびきよせました。
むかるみに足を取られて動けなくなった武田軍は次々と討たれ、徳川軍は無事浜松へ戻ることができたといわれています。
この地が「挑燈野」と呼ばれるようになったのは、この出来事からで、その後多く飛ぶようになったホタルは、命を落とした武田軍の兵士の魂であると伝えられています。
(看板資料より)

 



2005年01月30日

挑燈野の由来
元亀3(1573)年10月、甲斐国(今の山梨県)の武田信玄(52才)は、三万五千の大軍で浜松城の徳川家康(31才)の軍四千人と一言坂で合戦をして、家康を討ち敗った。家康軍は退却に際して、急追する武田軍を迎え討とうと計画した。
当寺この附近は温地帯で、石動といわれた沼地であった。腰までもぐる震田に布橋をかけたり、附近の松林には火をともした多くの提灯をかけ、或いは幟を押し立てて陣地と見せかけて敵を待った。武田軍はそれとも知らず、馬に鞭打ち、怒涛のように押し寄せたが、人も馬も皆深い沼地に落ちてたいへん苦しんだ。家康軍は直ちに反撃して敵に大損害を与え、味方は全員無事に浜松へ帰ることができた。
村人たちはこの戦いで死んだ将兵の死体を集めて懇ろに弔った。ここを挑燈野といい、夏の夜「万能ボタル」という大きな蛍がたくさん飛ぶのは、武田軍将士の魂であると古老は伝えている。
(看板資料より)

旧蹟 挑燈野
天正2(1574)年、武田勝頼が遠江(静岡県西部)に侵攻した際、徳川家康は沼地に布橋をかけ、たくさんの堤燈を掲げ武田軍を誘い込み、沼にはまった多くの甲斐兵が戦死しました。村人は亡くなった甲斐兵を弔い「挑燈野」と名付けたといわれています。
(一言坂の看板資料より)


上のそれぞれの案内板に書かれているように、武田信玄の西上作戦の際の話と、信玄死後に武田勝頼が攻めてきた際の話の2つの説明が書かれていました。挑燈野の石碑の場所は国道1号線沿いのパチンコ屋の駐車場内です。一言坂の戦跡のところから少し西に向って行き向って左側に出てくるパチンコ屋に入れば見つかると思います。

 

 
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