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挑燈野の由来
元亀3(1573)年10月、甲斐国(今の山梨県)の武田信玄(52才)は、三万五千の大軍で浜松城の徳川家康(31才)の軍四千人と一言坂で合戦をして、家康を討ち敗った。家康軍は退却に際して、急追する武田軍を迎え討とうと計画した。
当寺この附近は温地帯で、石動といわれた沼地であった。腰までもぐる震田に布橋をかけたり、附近の松林には火をともした多くの提灯をかけ、或いは幟を押し立てて陣地と見せかけて敵を待った。武田軍はそれとも知らず、馬に鞭打ち、怒涛のように押し寄せたが、人も馬も皆深い沼地に落ちてたいへん苦しんだ。家康軍は直ちに反撃して敵に大損害を与え、味方は全員無事に浜松へ帰ることができた。
村人たちはこの戦いで死んだ将兵の死体を集めて懇ろに弔った。ここを挑燈野といい、夏の夜「万能ボタル」という大きな蛍がたくさん飛ぶのは、武田軍将士の魂であると古老は伝えている。
(看板資料より)
旧蹟 挑燈野
天正2(1574)年、武田勝頼が遠江(静岡県西部)に侵攻した際、徳川家康は沼地に布橋をかけ、たくさんの堤燈を掲げ武田軍を誘い込み、沼にはまった多くの甲斐兵が戦死しました。村人は亡くなった甲斐兵を弔い「挑燈野」と名付けたといわれています。
(一言坂の看板資料より) |