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福井県高浜町

長福寺


2009年08月13日

一色氏の若狭支配は、貞治5年の範光入部以来、詮範、満範、義範(のち義貫)と続くが、永享12(1440)年5月15日、義貫は大和の陣において安芸守護武田信栄に謀殺された。足利将軍6代義教の命によるものである。室町幕府の体制確立を意図していた義教は、先代義持に引続き絶対的権力の保持を狙っており、諸国守護大名の後嗣問題にまで口をはさんだ。
武田信栄は、将軍家から賜ったものを見せたいからとの理由で一色義貫を自分の陣所へ招いたのであった。一色方では既にそれを察知しており、家臣はワナだから応じないようにと止めたが、義貫は約束したから破れないとして信栄の陣へ出向いたのであった。信栄は自ら出迎え座敷へといざなった。着座しようとした途端に武田方はいきなり斬り込んで来たのである。予測していた義貫はすかさず自害したという。
これによって一色義貫所領は、丹後は一色教親、三河は細川氏、そして若狭国は武田信栄に配分された。信栄はここに安芸・若狭両国守護となったが、若狭への入部は実現しなかった。というのは、義貫謀殺のとき、同氏被官三方忠治の一太刀が信栄を疵つけ、それがもとで同年7月23日ついに他界したからである。享年28才であった。
(高浜町誌より)

武田信栄の墓

お盆だったので住職ご不在の中、ご婦人が武田信栄の墓の場所を教えてくれ、また位牌も見せていただきました。武田信栄の位牌は右奥にありました。表札を見ると「武田」と書かれていました。

 

 
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