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長野県飯山市

英岩寺

2016年04月30日

本堂

永仁年間天台宗の修験場として創立されたと伝えられている。当時は江岸寺という。後、戦国期に衰微したが、文禄4年高源7世通庵寿貫和尚によって栄巌寺として中興され、安永年中「英岩寺」と改名し現在に至っている。今の本堂は安政3年に建立された物である。
・地蔵堂 火難を救うと云われる。縁日は24日
・荒神堂 かまどの神。緒病を救う祭礼は7月第3土日
・観音堂 西国33ヶ所の観音像を祭る縁日8月9日
・神農堂 医薬、農耕を教えた神農大士を祭る。
大石に、西面に日月、下部に「永仁5年6月平氏敬白」と刻まれていたが今は磨減して見えない。昭和初期まで石の下部から清水が湧き出しており、それを眼薬に用いたといわれている。
(看板資料より)


鬼小島弥太郎の墓

戦国の武将上杉謙信の臣小島弥太郎は、その武勇のために「鬼小島」と称せられた。永禄4年9月10日の川中島の大激戦は、前年上杉軍が有利に戦を進め、後年は武田軍の優勢のうちに、謙信は主従数騎のがれて安田の渡しにさしかかった。伝承によればこの時謙信に従う者は小島弥太郎ただ一騎であったと云う。
千曲川を渡った謙信主従は追ってをさえぎるために渡綱を切って落とし、市ノ口から小佐原にさしかかったが、弥太郎は前日来深傷にたえかね、主君の無事を祈りながら割腹して果てた。
鬼小島弥太郎最期の地というので、後人この所を鬼が峯と呼ぶようになったと伝えられる。
この小島弥太郎の墓は、鬼が峯と数百メートル隔てる英岩寺墓地に文禄4年、弥太郎ゆかりの者によって建てられたものと推定される。
(看板資料より)

 



2012年11月18日

永仁年間天台宗の修験場として創立されたと伝えられている。当時は江岸寺という。後、戦国期に衰微したが、文禄4年高源7世通庵寿貫和尚によって栄巌寺として中興され、安永年中「英岩寺」と改名し現在に至っている。今の本堂は安政3年に建立された物である。
・地蔵堂 火難を救うと云われる。縁日は24日
・荒神堂 かまどの神。緒病を救う祭礼は7月第3土日
・観音堂 西国33ヶ所の観音像を祭る縁日8月9日
・神農堂 医薬、農耕を教えた神農大士を祭る。
大石に、西面に日月、下部に「永仁5年6月平氏敬白」と刻まれていたが今は磨減して見えない。昭和初期まで石の下部から清水が湧き出しており、それを眼薬に用いたといわれている。
(看板資料より)


鬼小島弥太郎の墓

戦国の武将上杉謙信の臣小島弥太郎は、その武勇のために「鬼小島」と称せられた。永禄4年9月10日の川中島の大激戦は、前年上杉軍が有利に戦を進め、後年は武田軍の優勢のうちに、謙信は主従数騎のがれて安田の渡しにさしかかった。伝承によればこの時謙信に従う者は小島弥太郎ただ一騎であったと云う。
千曲川を渡った謙信主従は追ってをさえぎるために渡綱を切って落とし、市ノ口から小佐原にさしかかったが、弥太郎は前日来深傷にたえかね、主君の無事を祈りながら割腹して果てた。
鬼小島弥太郎最期の地というので、後人この所を鬼が峯と呼ぶようになったと伝えられる。
この小島弥太郎の墓は、鬼が峯と数百メートル隔てる英岩寺墓地に文禄4年、弥太郎ゆかりの者によって建てられたものと推定される。
(看板資料より)

 



2011年12月29日

飯山で最古のお寺がこの英岩寺。開創は永仁年間(鎌倉時代後期)で、天台宗の修験道場として創立されたと伝えられています。寺号は本堂山腹にある大岩にちなんでつけられたそうです。
境内には鬼小島弥太郎の墓があります。鬼小島弥太郎は槍の名人。川中島合戦の折、退却を余儀なくされた上杉謙信と共に千曲川を渡り、安田の渡しまで来ました。富倉峠へ向かうところで謙信に従うものは弥太郎一人のみ。深手を負っていた弥太郎は主人の足手まといになることを憂い自害して果てます。寺の裏山を「鬼ガ峰」と呼び、1mほどの自然石が弥太郎の墓です。
(いいやま古寺社めぐりより)


英岩寺に鬼小島弥太郎の墓があるとのことで立ち寄りました。墓は200m程奥にあるとのことでしたが、ご覧のように大雪で近寄ることができませんでした。
新潟県長岡市の栃尾にも鬼小島弥太郎戦死の地というところがありますが死因が全然違うのが興味深いですね。

 


鬼小島弥太郎戦死の地 

 

 
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