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長野県箕輪町

福与城

2015年05月17日

南城から見た本郭

福与城絵図(看板資料より)

福与城は天竜川東岸の河岸段丘の先端に存在している。北は鎌倉沢の流れる窪地に面し、南は南沢の流れる窪地で区切られている。一般に段丘崖上の城は、段丘崖の先端部に主郭を置くが、この城の主郭は北城・二の郭および南城に囲まれた形で段丘の奥にある。他の郭より一段高い位置にあるが、北城および二の郭であったとの説もあるくらいである。また大手口は二の郭の下方、三日町の南にあたる部分にあったと考えられるが、この点も段丘崖上の城としては珍しいことである。主郭および二の郭の堀を隔てた南側は総称して「南城」と呼ばれているが、範囲が広く自然地形を利用した縄張りであり、搦手の位置にあたると思われる。また城下は大手付近の段丘の下に存在したと思われる。
この城は、諸種の文献に出てくる「箕輪城」に該当するものと考えられている。記録上の初見は天文11(1542)年以降の甲斐武田氏の伊那攻略に関する記事である。
それによれば、同13年に辰野町の荒神山に陣を置いた武田氏は、福与城主の藤沢頼親を攻撃したが、形勢不利とみて諏訪に引き返し、翌年になって再び攻撃を開始した。
頼親は、上伊那衆および下伊那衆に援軍を求めて抵抗したが、結果は和議によって開城している。武田軍は城中に放火したのでこの時点で福与城は廃城となったと考えられる。
なお、中先代の乱に際し、北条時行が立て籠もった大徳王寺城がこの福与城のことであるとする説がある。
(日本城郭大系より)

北城から見た本郭

本郭


二の郭

この城跡は天竜川東岸段丘の緩斜面を利用した中世の平山城である。この城の創設は鎌倉時代と伝えられるが、城主についてはつまびらかでない。天文年代(1532〜1555)になると藤沢頼親が城主として勢力を張ったが、武田晴信(信玄)の伊那攻略にあい、天文14(1545)年に落城し、城は焼失した。
城跡は、幅が東西約330メートル、南北約440メートルで、本城・北城・南城に区分されている。本城は第一、第二の郭にわかれ、空堀を隔てて北城に対している。北城は本城より一段低い平地で、最初ここが本城に使用されていたともいわれる。南城は本城の南に位置しやや高低差があり、物見櫓といわれる場所もあって、遠見には好適の地点であった。
武田氏によって城の建物の焼却があったものの、当寺の遺構を残しており、戦国時代の居館と軍事的防塞の機能をかねあわせた平山城の様相を知ることができ、貴重な城跡である。
(看板資料より)


北城

規模
この城跡は本城、北城、南城を中核とし権次郭、物見櫓跡、乳母屋敷、宗仙屋敷、赤穂屋敷等の遺構をもつ大規模な平山城である。本城は第一郭(主郭)、第二郭に分れ主郭は北は浅い空掘で北城をひかえ、南は深い空掘を隔てて細長い南城に面し、東は鎌倉沢の谷に臨んでいる。第二郭は主郭の西方崖下に位し、南北二段よりなり、大手口はこの面にあたる。搦手の豊口に近くニ条の外堀が見られ、水の手をここにもとめ、町屋は初め福与に、後、三日町に設けたようである。
説明
この史跡は鎌倉幕府に勤仕した藤沢氏(神氏系)が室町中期から箕輪郷を中心に此処を根拠に威勢をふるっていた。その後天文14年3月、諏訪、高遠を攻略した武田信玄は、伊那谷への進攻を策し、その門戸に位置するこの城に迫った。城主頼親は上伊那衆を結集して連日激戦をなし、更に深志の小笠原長時及び小笠原・知久氏等下伊那衆の来援をもとめたが空しく篭城50日ついに6月、舎弟権次郎を人質に開城し、城は放火破壊され頼親は流浪の身となった。
かかる痛ましい歴史を秘めたこの城跡は藤沢氏以降改修をまぬがれ、ほぼ戦国期の原型を今日に遺していることで貴重な城跡である。
(看板資料より)


主郭と南城の間の堀

権治郭

本郭から見た南城

 



2004年3月13日

この城跡は天竜川東岸段丘の緩斜面を利用した中世の平山城である。この城の創設は鎌倉時代と伝えられるが、城主についてはつまびらかでない。天文年代(1532〜1555)になると藤沢頼親が城主として勢力を張ったが、武田晴信(信玄)の伊那攻略にあい、天文14(1545)年に落城し、城は焼失した。
城跡は、幅が東西約330メートル、南北約440メートルで、本城・北城・南城に区分されている。本城は第一、第二の郭にわかれ、空堀を隔てて北城に対している。北城は本城より一段低い平地で、最初ここが本城に使用されていたともいわれる。南城は本城の南に位置しやや高低差があり、物見櫓といわれる場所もあって、遠見には好適の地点であった。
武田氏によって城の建物の焼却があったものの、当寺の遺構を残しており、戦国時代の居館と軍事的防塞の機能をかねあわせた平山城の様相を知ることができ、貴重な城跡である。
(看板資料より)

規模
この城跡は本城、北城、南城を中核とし権次郭、物見櫓跡、乳母屋敷、宗仙屋敷、赤穂屋敷等の遺構をもつ大規模な平山城である。本城は第一郭(主郭)、第二郭に分れ主郭は北は浅い空掘で北城をひかえ、南は深い空掘を隔てて細長い南城に面し、東は鎌倉沢の谷に臨んでいる。第二郭は主郭の西方崖下に位し、南北二段よりなり、大手口はこの面にあたる。搦手の豊口に近くニ条の外堀が見られ、水の手をここにもとめ、町屋は初め福与に、後、三日町に設けたようである。
説明
この史跡は鎌倉幕府に勤仕した藤沢氏(神氏系)が室町中期から箕輪郷を中心に此処を根拠に威勢をふるっていた。その後天文14年3月、諏訪、高遠を攻略した武田信玄は、伊那谷への進攻を策し、その門戸に位置するこの城に迫った。城主頼親は上伊那衆を結集して連日激戦をなし、更に深志の小笠原長時及び小笠原・知久氏等下伊那衆の来援をもとめたが空しく篭城50日ついに6月、舎弟権次郎を人質に開城し、城は放火破壊され頼親は流浪の身となった。
かかる痛ましい歴史を秘めたこの城跡は藤沢氏以降改修をまぬがれ、ほぼ戦国期の原型を今日に遺していることで貴重な城跡である。
(看板資料より)


本丸周辺は見晴らしが良くて思わず横になって昼寝をしたくなるようなところでした。説明によれば本丸以外にも遺構が多く残っていて思ったより規模が大きな城であることも分かりました。場所は入口に看板があるのですぐに分かると思います。

 

 
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