静岡県浜松市
2001年08月12日 浜松城は、徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀元年(1570)6月に入城し、17年間在城した。東西600m、南北650mの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三の丸、二の丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。ここはその天守曲輪の跡である。家康の後、城主は代々譜代の大名が勤め、在城中に老中まで栄進した人が多い。中でも水野越前守忠邦の名はよく知られている。石垣は野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。 (看板資料より)
天守台と天守閣 天守台は天守曲輪の内部にあり、ほぼ長方形をして周りは石垣で囲まれている。天守閣への上り口は一ヶ所で広場の南側から三回屈曲した石段を上がると東向きの天守閣正面に達する。面積は240u(およそ70坪)である。天守台には天守閣が置かれていたはずであるが江戸中期の絵図には描かれていない。現在の天守閣は昭和33年に再建された。 (看板資料より)
浜松城の沿革 浜松城は徳川家康が築いたものです。家康は永禄11年(1568年)に三河から遠江に入り、各地を転戦して、引馬城をはじめ諸城をしたがえると共に、浜松城の築城に着手しました。元亀元年(1570)長子の信康に岡崎城をゆずって自らは浜松城へ移り、駿遠経営の本拠と定めました。 家康は29歳の時にこの浜松城に移り天正14年(1586)45歳で駿府城に入るまで在城17年の長きに及んでいます。 有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもみなこの期間い行なわれ、特に元亀3年(1572)の三方原合戦は家康の生涯における敗戦で、関ヶ原合戦以上の戦でした。家康にとってこの浜松在城の17年間は、徳川300年の歴史を築くための試練の年でもあったわけで、浜松城が出世城といわれるのもけだし当然といえます。 城郭は南北約500米、東西約450米の地域にわたり、三方原台地の斜面に沿って天守閣、本丸、二の丸、三の丸がほぼ一線に並び、いわゆる梯郭式の築城法に属しています。その他作左曲輪、出丸等もあり、古城と称する個所は引馬城の跡といわれています。また現存する石垣は、築城当時そのままのもので野戦城にふさわしく粗けずりの岩を使って頑丈に構築してあります。 家康の後、浜松城は豊臣の家臣堀尾氏が城主となりましたが、江戸に幕府が開かれてからは、代々譜代大名にこれを守らせました。その石高はおおむね5万石前後でした。城主として有名なのは天保の改革を行なった水野越前守忠邦です。忠邦は肥前唐津にいましたが、その栄進を望んですすんで浜松城主になったといわれています。 明治維新以後、城郭は壊されすっかり荒廃に帰して、苔むす石垣にわずかに当時の面影をしのぶばかりですが、昭和34年6月1日、市の史跡に指定されました。 昭和33年春、浜松市民の努力がついに実を結び、旧天守閣跡に立派な新天守閣の再建を見るにいたりました。 (天守閣内の資料より)
本丸 天守閣が城の象徴なら、本丸は城の本拠地である。普通の城は天守閣を取り囲むように本丸が配置されているが、浜松城の場合は天守閣の東、約17m下に作られた。周囲を石垣で囲み、南に正門である鉄門があった。北には富士見櫓、南東の隅には二層の菱櫓を置いた。本丸内の建物については詳しいことは分かっていない。(看板資料より)
二の丸 本丸の東に位置して土地も一段と低い。ここは城主の家と浜松藩の政治を行なう政庁があり、江戸時代を通じて藩の政治の中心であった。広さはおよそ5000u(1500坪)。主な建物は表御殿(藩の政治をする所)と奥御殿(城主の家)であり多くの部屋があった。現在は市役所と元城小学校体育館が建てられている。(看板資料より)
浜松城の石垣
浜松城の石垣は見るからに荒々しい。自然石を上下に組み合わせて積み上げたもので、表面に石のすき間もあるが、奥が深く堅固である。外観は粗雑でちょっと見ると崩れやすいようであるが四百年の風雪に耐え、今なお戦国時代の面影を残している。 このような積み方を野面積という。使った石は舘山寺の東の大草山、根本山、浜名湖の西の湖西市知波田方面にある珪岩である。 (看板資料より)