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愛知県岡崎市

日近城

2005年02月11日

本曲輪

日近城の歴史
日近城は標高約270メートル、比高70メートルの尾根の先端に築かれ、守りを意識した山城で、砦、詰城として利用した。広祥院由緒書によれば、奥平三代目貞昌が文明10(1478)年日近に進出し、広祥院を中興したとある。日近城はこの時期に築城された。
奥平氏は14世紀の後半から作手に本拠地を構え、周辺に勢力の拡大を図ってきた国人領主である。貞昌は次男貞直(貞頼、久兵衛)を日近に配し、日近奥平の初代とした。貞直は当時三河に勢力を得ていた今川氏についていたが、弘治2(1556)年離反して織田氏に与したことから日近合戦となった。この時は今川方の軍をよく防ぎ戦果をあげた。しかし半年後の雨山合戦で今川軍に負けた本家作手の四代目貞勝により貞直は放逐させられ長男彦九郎は討ち取られた。その後日近は本家の支配となり、天正18(1590)年関東移封による廃城まで続く。約100年間のことである。
日近城の縄張りは、築城当初は本曲輪、二の曲輪、三の曲輪を西に向って直線に配置した単純な連郭形であった。その後、本曲輪を半周する腰曲輪や南の尾根を遮断する掘切り、南に大手口となる桝形虎口を造っている。小規模ながらも中世の山城として重要な軍事的役割を果した城である。
(看板資料より)

奥平監物貞昌公、文明年間中、南設楽郡作手村川尻城より、当日近城を本城として移り玉う。永正9年貞勝公、永正11年貞頼公誕生。当村八幡宮は御氏神なり。貞昌公川尻へ引取後、貞頼公城主となり、又其の子、貞友が守り、天正元年長篠合戦時には息女おやすを人質となす。
(広祥院パンフレット資料より)

奥平監物貞昌公、作手川尻城より当地に移住。日近城を築城居城となす。現在は当院裏山、標高400メートル、本丸跡に秋葉山鎮守奥平家墓一基あり、まわりに砦屋敷跡3ヶ所馬はしり場跡等あり。当院の近くは全部武家屋敷、隠居所等ありしも今は山林、畑と化し、石垣のみが昔日の跡を止めている程度なり。
(広祥院パンフレット資料より)

本丸奥の掘切

二の曲輪

虎口

帯曲輪

日近城は麓の広祥院の裏山にあたり、広祥院本堂の左側から登っていくことができます。途中、不動明王や奥平家墓所を通過し、更に道が分かれますが右の武家屋敷には行かずに左側へと登って行きます。二の曲輪、虎口などの案内板も出てきます。山頂が本曲輪で案内の立派な看板もありました。本曲輪の奥に掘切があり本曲輪から直接降りてしまいましたが、本曲輪の右側にある帯曲輪を通っていけば同じところに行かれます。更に奥にはきれいなトイレがありましたが多分別の管理施設だと思います。広祥院の奥平家臣の墓というのはこの日近城の本曲輪奥にあるとのことでしたが見つけることはできませんでした。


広祥院

 

 
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