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長野県塩尻市

平出一里塚(平出の乳松)

2014年05月24日

一里塚は、慶長9(1604)年より徳川秀忠の命により各街道に築かれ同12年にほぼ完成をみた。秀忠は、永井白元、本多光重等を一里塚奉行に任命して、中仙道筋の幕府領、私領を問わず人足を徴発して道を整備し、江戸日本橋を基点として36町を一里とし、一里ごとに道の両側に一里塚を築かせ、塚の頂上にエノキなどを植えて道程標とし、旅情を慰め、通行の便宜をはかった。その道路幅は5間(9m)塚は5間4方、高さ1丈(2.3m)と定められたが明治以降はその必要がなくいうとはなく次々に消滅し、県下でも平出のように原形を保つものは極わずかとなった。江戸時代、塩尻市内には3つの街道にそって、8ヶ所に一里塚が築かれていたが、両塚を残すのはこの平出のみとなってしまった。この一里塚は日本橋の基点より59番目のもので、また、宝暦6(1756)年頃には、この付近に茶屋2軒のあったことが分かっている。
(看板資料より)

伝説 平出の乳松
松の葉を服用すると乳の出がよくなると言う。
山本勘助軍鑑の松の伝説もある。文久3年枯死以来数代目。
(倒れていた棒杭記載文章より)

天文年間、武田信玄と小笠原長時が雌雄を決しようとした桔梗ヶ原合戦の時のことである。甲州勢の進路にあたって赤児の泣き声がした。その時采配を振るっていた武田の軍師山本勘助は、いち早くその声を聞きつけ、雨の如く降り注ぐ矢玉をかいくぐって赤児を拾い上げ、片手にかい抱くや、そのまま敵陣に迫っていった。伝えるところによると、勘助晴幸は独眼・跛脚・手なえであった。戦はいよいよ激しく、さしもの勘助も赤児をもてあまし、ひとまず安全な場所へ隠そうとあたりを見回すと、おりよく小高い塚の上に一本の松が枝を広げて立っているのが目についた。勘助は松の根方に赤児をそっとおろし、松に向って人に物をいうように、その子の一身をくれぐれも頼んで、再び敵陣めがけて突進していった。激戦小半日、小笠原勢を敗退させた勘助が、取るものも取りあえず塚の上へ引き返してみると、くだんの赤児は松の葉からしたたり落ちる雫を、あたかも母親の乳房から出る乳のように口に含んで、喜々としていた。このことがいつか世に伝わって「あれは乳松である。勘助子育ての松である」といわれるようになった。その後、50年ほどして一里塚が造られたが、人々は江戸時代を通じて一里塚の上の松をずっと乳松と呼び伝えてきた。
(塩尻の伝説と民話・長野県の武田信玄伝説より)

 



2007年03月11日

一里塚は、慶長9(1604)年より徳川秀忠の命により各街道に築かれ同12年にほぼ完成をみた。秀忠は、永井白元、本多光重等を一里塚奉行に任命して、中仙道筋の幕府領、私領を問わず人足を徴発して道を整備し、江戸日本橋を基点として36町を一里とし、一里ごとに道の両側に一里塚を築かせ、塚の頂上にエノキなどを植えて道程標とし、旅情を慰め、通行の便宜をはかった。その道路幅は5間(9m)塚は5間4方、高さ1丈(2.3m)と定められたが明治以降はその必要がなくいうとはなく次々に消滅し、県下でも平出のように原形を保つものは極わずかとなった。江戸時代、塩尻市内には3つの街道にそって、8ヶ所に一里塚が築かれていたが、両塚を残すのはこの平出のみとなってしまった。この一里塚は日本橋の基点より59番目のもので、また、宝暦6(1756)年頃には、この付近に茶屋2軒のあったことが分かっている。
(看板資料より)

旧中山道の洗馬宿から塩尻宿に向う途中左側に大きな松が見えてきますが、これが平出一里塚です。私が探していた平出の乳松がこの松なのかどうか分からなかったので平出一里塚のすぐ前のお宅を訪問してお話を聞かせてもらいました。それによるとまず平出の一里塚は、旧中山道を挟んで反対側にもう一つあるということでした。確かにお話を聞かせてもらったお宅の裏側にも立派な一里塚の松があり、また同じ案内板もありました。また山本勘助の伝説(平出の乳松)のお話についても聞かせてもらいましたが確かに平出の一里塚は平出の乳松であるとのことでした。お話を聞かせてくれた方が平出一里塚のところまで案内してくれて以前ここに建っていた案内の棒杭をみせてもらいました。既に古くて腐っておりましたが書いてある内容を確認することができました。

伝説 平出の乳松
松の葉を服用すると乳の出がよくなると言う。
山本勘助軍艦の松の伝説もある。文久3年枯死以来数代目。
(倒れていた棒杭記載文章より)

天文年間、武田信玄と小笠原長時が雌雄を決しようとした桔梗ヶ原合戦の時のことである。甲州勢の進路にあたって赤児の泣き声がした。その時采配を振るっていた武田の軍師山本勘助は、いち早くその声を聞きつけ、雨の如く降り注ぐ矢玉をかいくぐって赤児を拾い上げ、片手にかい抱くや、そのまま敵陣に迫っていった。伝えるところによると、勘助晴幸は独眼・跛脚・手なえであった。戦はいよいよ激しく、さしもの勘助も赤児をもてあまし、ひとまず安全な場所へ隠そうとあたりを見回すと、おりよく小高い塚の上に一本の松が枝を広げて立っているのが目についた。勘助は松の根方に赤児をそっとおろし、松に向って人に物をいうように、その子の一身をくれぐれも頼んで、再び敵陣めがけて突進していった。激戦小半日、小笠原勢を敗退させた勘助が、取るものも取りあえず塚の上へ引き返してみると、くだんの赤児は松の葉からしたたり落ちる雫を、あたかも母親の乳房から出る乳のように口に含んで、喜々としていた。このことがいつか世に伝わって「あれは乳松である。勘助子育ての松である」といわれるようになった。その後、50年ほどして一里塚が造られたが、人々は江戸時代を通じて一里塚の上の松をずっと乳松と呼び伝えてきた。
(塩尻の伝説と民話・長野県の武田信玄伝説より)

 

 
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