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長野県小谷村

平倉城

2009年05月03日

平倉城には以前行ったことがあるのですが、夕方だったこともあり秋葉様のところまで行ってその先の道が分からなくなってしまったので勇気を出して撤退していたのです。いつかは一番上まで登りたいと思っていました。今回は平倉城に登る予定は無かったのですが、神宮寺の住職のお話を聞いてすっかり登る気になってしまったのです。登り口は分かっていたのでそこに車を置きました。ここは登るのが大変なところであることは分かっていたので入念に準備しました。靴の紐を締めなおし、膝のサポーターをして登り始めました。
8:30には登り始めました。すぐに平倉神社があります。この神社は以前は山の上にあったものですが雪の被害があるため麓に降ろしてきたとのことでした。神社に向って左側に下っていきます。途中木が曲っている光景は異様でした。きっと雪の重みで木が曲がってしまったのでしょう。そして以前登った時には見た記憶のない景色が出てきたので以前よりは上まで上がってきたのだろうと思っていたのですが、登りはじめて約30分で以前来たことがある秋葉様にたどり着きました。そしてまたその先の道が分からなくなってしまったのです。しばらく周辺を探索しましたが秋葉様に向って左方向に向いていると思われる遊歩道案内板らしきものを発見。実は以前も左側に向っていったのですが途中で道が分からなくなってしまって断念していたのです。しかし今回はまだ時間も十分に余裕があるし左側奥に歩き進めてみました。するとすぐに看板らしきものを発見。実は前回もほとんど頂上近くまで来ていたことが分かりました。平倉城の合戦や上杉の援軍についての説明板があってその周辺が城址とのことでした。城址の下方には局屋敷というものがあるそうですが、ちょうど帯曲輪のようなものだと思います。そこから1段上がったところが平らになっていてそこに平倉の神社という説明看板があったのできっと以前はここに平倉神社があったのでしょう。更に登っていくと岩がゴツゴツしてきて堀切と思われるようなものも見られました。途中岩に穴があいている所もありましたが麓の説明板では首かくしの洞穴と書かれていました。山頂には9:15到着。山頂にも同じような穴が空いていました。落城時は水に困っていたことなどが書いてありましたから井戸ではないと思います。鶯のさえずりを聞きながら下山してきて麓に着いたのは9:45くらいでした。

村史跡 平倉城

平倉城の合戦
上杉謙信と武田信玄が川中島で一騎討ちを演ずる5年程前の弘治の昔、既に深志城を手に入れて徐々に勢力を北に伸ばしていた信玄は、山県昌景を将とする軍を、先ず白馬村飯森に陣を張る飯森十郎盛春を攻略した。衆寡敵せず敗れた盛春は一旦越後に脱れ謙信に頼った。その後、この平倉城を治め小谷五人衆に応援を求めた。しかし既に武田方に通じている五人衆のうち四人は承知せず最も越後と関係の深い山岸氏だけが応じた。盛春は四人の中の最も強硬な田原主馬を殺して他の三人を服従させようと企てたが、主馬に念を受けた昌景は直ぐに軍勢を率いて平倉に攻め寄せた。城兵よく奮戦したが、山上の狭い地積で兵糧や水に恵まれない山城では永い籠城は無理である。白米を馬の背にかけ水の豊富さを敵に示さんとした計も空しく、弘治3年7月5日、城はついに落城の悲運に見舞われ、盛春はじめ城兵の殆どは討死した。この時盛春の姫は名馬にまたがり一鞭あてて平倉山から中谷川を飛び越えて館山の麓までいき、姫川の深淵に身を投じて果てた。ここは今も姫が村人を呼んでいる。盛春の墓は中土の玉泉寺の本堂裏にある。なおこの時、上杉の援軍は地蔵峠を越えて深原の上の「貝の平」まで来たが、前方に燃え上がった兵火を見て平倉城の陥落を知り足とり重く引き返した。
(看板資料より)

上杉の援軍
上杉は盛春より、城危しとの報により謙信は部下の将兵を援軍として遣わしたが間に合わず、北小谷の深原の上まで来た時落城の火の手が上り、無念の貝を吹き鳴らし、地だんだを踏んだと言われ、そこをいまだに、貝のびら或いは地だんだと呼ぶ地名が残っている。この時の援軍は深原の上から、み坂峠の跡杉まで約3キロメートルに及んだとのことである。
(看板資料より)

平倉の神社
落城後何年か後、黒倉部落の人達によって飯森十郎を平倉十郎と呼び平倉様として祀り穀物の神である倉稲魂神とも併せ祀って部落の繁栄を祈っている。毎年5月5日にお祭りが行われる。
(看板資料より)


局屋敷

城主の奥方を中心として、これに仕える婦人の屋敷跡である。小石が敷かれてあったのが見つかっている。上段、中段、下段と三段になっている。つぼねの平とも言う。
(看板資料より)


山頂部にあった穴


2004年10月17日

平倉山

平倉城(小谷城)案内図

史跡・平倉城址遊歩道案内
対岸に聳え立つ、標高824メートルの平倉山、その山の中央より上方西斜めに三段になった城址がある。上段、中段、下段の三段式の築城で、向って左斜下には婦人等の居た局屋敷跡がある。下段は東西が25間、南北12間、中段は東西20間、南北5間、上段は東西15間、南北3間である。
かつてここに小谷城がそびえ、小谷7ヵ村の領主飯森山城主平盛照が在城した。応永のころ(室町時代)であろうか。
降って、飯森日向守盛春が上杉によってこれを守っていたが、武田信玄の武将山県昌景に攻められその旗下、曲淵庄左衛門のため打死。城はついに落つ。時に弘治3年7月5日という。この落城にちなむ、哀話、伝説、地名等は、城の周辺はもとより北小谷の戸土の辺まで点々と残っている。
(看板資料より)

登山途中からの景色

平倉城は別名小谷城であり、新田次郎の小説武田信玄では、第3次川中島合戦で上杉勢が武田信玄を追って信濃に攻め込んできたときに突然武田軍によって落とされてしまった城という程度の認識でした。しかし現地に来て見ると、ちゃんと案内板もあって平倉城付近だけでなく数多くの伝説などが残されていることを知りました。
戸隠村から鬼無里村、白馬村を経て国道148号線を北上して小谷村へ向いました。小谷温泉への入口の前後には長いトンネルがあって最初は通り過ぎてしまったのですが、小谷温泉入口を右折して小谷温泉に向かい、白岩というところまで来ると平倉城への看板や案内板もあるのでそれに沿っていけばたどり着くことができます。しかし行き過ぎてしまうと違うところに行ってしまいますので注意が必要です。山道を登り始めてすぐに平倉城址遊歩道入口の看板があるのでそこから登ります。
すぐに神社が出てきますがそこからは下り道になり砂防堤の前の木造の橋を渡り、あとはひたすら山道を登ります。登り始めた時間が15:30頃と遅かったため森の中に入ると薄暗くなり、更に最近はクマがよく出没するという話を聞いているので不安になりましたが、せっかく来たのでとにかく登りました。登り始めて30分後に「秋葉様」に到着しましたが、そこから先は道が良く分からなかったので断念しました。

歩き始めてすぐの神社

秋葉様


切った屋敷(正面山裾)

平倉城を攻落とした後、武田方では一門一族の残党狩りを行い、生き残った者、傷ついたものを捕えて男は皆切ってしまった。その場所を「切った屋敷」と言っている。
この時、ある家のお婆さんは十才くらいの男の子の孫を救うため女装させ、検分役人の前へ引き出された時、男根を股から後へ廻して押え、女と見せかけて難を逃れたとのことである。
(看板資料より)

 

 
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