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京都府京都市

本能寺跡


2016年02月21日

本能寺跡記
応永22(1415)年御開山日隆聖人は、本門八品の正義を弘通せんがため、油小路高辻と五条坊門の間に一寺を建立して「本応寺」と号されたが、後に破却されたので、永享元(1429)年小袖屋宗句の外護により、町端に再建、次いで永享5(1433)年如意王丸の発願により、六角大宮に広大な寺地を得て移転再建、本門八品能弘の大霊場として「本能寺」と改称された。その後、天文5(1536)年天文法乱によって焼失。天文14(1545)年第8世伏見宮日承王上人によって旧地より四条西洞院の此の地に移転。壮大なる堂宇の再興を見た。然るに天正10(1582)年彼の「本能寺の変」によって織田信長と共に炎上、天正17(1589)年この地に再建せんとし、上棟式の当日、豊臣秀吉より鴨川村(現在の寺町御池)の地に移転を命ぜられる。一山の大衆声を放って号涙すと。因みに本能寺は度々火災に罹りたるをもって「ヒヒ」と重るを忌み、能の字を特に「(能の右側を)去」と書くのが慣わしである。
(看板資料より)

 

 
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