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    長野県飯田市静岡県水窪町

兵越峠

2015年10月12日

この峠を兵越峠と名づけたのは武田信玄が上洛を志ざし、元亀3(1573)年10月3日(新暦11月18日)約2万5千の大軍を率いて信濃国遠山領を通って、青崩峠の少し手前で分隊し、一隊はこの兵越峠も越したと言われている。
信玄が上洛のため信濃国、遠江国の国境の峠を越すことに意を決めたのは信玄の家来秋山信友が永禄11(1568)年、遠江国奥山、天野の両氏を味方につけるためにこの峠を越し、探索ののち5年後に天野氏を道案内として天野氏居城へ向ったのである。この国境にある2つの峠は青崩峠方面奥領家の谷は距離が短いため信玄の本体が通ったとしているが、兵越峠方面地頭方の谷は、北遠の穀庫といわれる谷で戦力を増すため雑兵、荷運搬馬は勿論の事、馬の餌、馬の草履、兵の草履、乾食料などの徴発や、敵が潜んでいるのを予想してこの峠を越したもので両峠は10月10日(新暦11月25日)に越し南下したのである。この峠は信玄の兵が越したと言われるゆかりの峠である。
世の中の進歩が歴史の道を、そして峠を忘却の彼方に押し流そうとしている。それがどんなに歴史的な意義があろうがなかろうが。。。
(看板資料より)

 



2004年04月30日

この峠を兵越峠と名づけたのは武田信玄が上洛を志ざし、元亀3(1573)年10月3日(新暦11月18日)約2万5千の大軍を率いて信濃国遠山領を通って、青崩峠の少し手前で分隊し、一隊はこの兵越峠も越したと言われている。
信玄が上洛のため信濃国、遠江国の国境の峠を越すことに意を決めたのは信玄の家来秋山信友が永禄11(1568)年、遠江国奥山、天野の両氏を味方につけるためにこの峠を越し、探索ののち5年後に天野氏を道案内として天野氏居城へ向ったのである。この国境にある2つの峠は青崩峠方面奥領家の谷は距離が短いため信玄の本体が通ったとしているが、兵越峠方面地頭方の谷は、北遠の穀庫といわれる谷で戦力を増すため雑兵、荷運搬馬は勿論の事、馬の餌、馬の草履、兵の草履、乾食料などの徴発や、敵が潜んでいるのを予想してこの峠を越したもので両峠は10月10日(新暦11月25日)に越し南下したのである。この峠は信玄の兵が越したと言われるゆかりの峠である。
世の中の進歩が歴史の道を、そして峠を忘却の彼方に押し流そうとしている。それがどんなに歴史的な意義があろうがなかろうが。。。
(看板資料より)

 
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