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長野県上田市

生島足島神社

2014年09月
28日

この生島足島神社には、武田信玄及びその部下の武将らの起請文が数多く残されています。これらは展示室に展示されているので無料で閲覧可能ですが原本ではなくコピーだと思います。残されている資料は大きく分けて2種類あり、一つは武田信玄が捧げて勝利を祈願した願状、もう一つは家臣らが信玄に対して忠誠を誓った起請文です。
■武田信玄の願状
 それまで3度対戦していた宿敵上杉謙信との決戦を覚悟し永禄2年に生島足島神社に願文を捧げて自軍の勝利と上杉謙信の滅亡を祈願しています。この時の願文には武田徳栄軒信玄と署名されています。2年後の永禄4年には第4回目の川中島合戦が行われています。
■家臣らの起請文
 武田信玄が改めて家臣に忠誠を誓わせたのは、長男義信との不和による家臣団の動揺を抑えるためと思われます。起請文差し出したのは信濃、上野、甲斐の237名にもおよび、ここには83通の起請文が残されています。

生島足島神社の歴史は非常に古く、平安時代に制定された延喜式に「生嶋足嶋神社二座名神大社」として記載されています。戦国時代には武田氏や真田氏が信仰を寄せ、江戸時代には歴代上田藩主の厚い庇護を受けてきた由緒ある神社です。
神社境内には、池に囲まれた小島の上に、権現造の本社(昭和16年)が北面して建ち、それに正対するように摂社諏訪社本殿(上田市指定文化財)が建てられています。本殿内殿は、かつては屋外に建てられていましたが、18世紀後期から19世紀初期の時期に覆屋としての本殿が建てられ、屋内の内殿となりました。
現在の内殿の規模は、桁行(正面)柱間三間(4.82m)、梁行(側面)柱間二間(3.10m)で、屋根は切妻造の厚板張り(当初は?葺)です。内部は、向かって左側二間が内陣、右側一間が外陣となっています。外陣は、諏訪大神が半年間、生島・足島両神にご飯を炊いて奉ったところと伝えられ、その伝承を受け継ぐ御籠祭と呼ばれる神事が現在も行われています。内陣の周囲は大部分が板壁で内外陣境に片引き板戸の潜り戸があります。正面中央柱間には片引き戸の戸口がありますが、当初は窓であったと推定されます。また、西妻(右側面)は、現在も壁も戸もない開放状態ですが、当初は向拝の土間が本神社の御神体とされています。これは、万物を育む大地を神として崇める最も古い神社の形式を伝えるものです。主要な部材は欅材で、表面は手斧仕上げの上を丁寧に削り磨いています。外面した部材の一部には朱などで彩色した跡が残ります。軸部は、粽・礎盤・大瓶束等を用いた室町時代の様式で、その特徴から建築年代は、天文年間頃と推定されます。
(看板資料より)

●起請文とは、神仏にかけて誓いを立てた文書。そむいたらどんな罰をこうむってもよい、と記したものが多い。一般に熊野午王宝印という特殊な紙に書かれています。
●この起請文は永禄9〜10(1566〜1567)年、信玄が上杉謙信と対立しつつ、都へ攻めのぼる計画を始めた時期のもの。信玄に異心のないことを、そして上杉謙信に味方しないことを改めて約束させ、たくさんの神仏に誓わせた鬼気せまる内容です。
●信玄の弟から農村に住む地侍まで、甲州・信州・上州の230余名の武将が提出。少し変色した血判が色鮮やかにのこり、誓いの重さ、せっぱつまった状況など、当時の様子をはっきり伝えています。
●このように大量の文書が残っているのは全国的にもここだけ。生島足島神社(当時は下之郷大明神)は、式内大社で、古くから有力な神社でした。信玄はじめ戦国時代の武将たちの大きい信仰を集めましたが、今も境内の様子や行事は高い格式を保っています。
(看板資料より)


生島足島神社歌舞伎舞台

本舞台は、間口九間、奥行約七間その規模は本県内の江戸〜明治時代に建築された農村歌舞伎舞台のなかで最大のもの、全国的にみてもトップクラスに属する。正面右と左の中二階に「太夫座」及び「下座」を設け、内部のほぼ中央に半径2.4メートルの「廻り舞台」がつくられている。またその前方二ヶ所に「せり上り」がある。
後方の壁面には巾二間の窓があるがこれは背後の自然風景を舞台背景として利用するためのものである。観客席は舞台前方の平地で花道は舞台向かって左手に仮設した。
氏子の伝承によれば、本舞台は明治元年に建設されその後校舎、集会所等に利用されてきたが、最近その建築が江戸期農村歌舞伎舞台の典型的な姿をほぼ完全に伝えていることが検証され、長野県県宝に指定された。
(看板資料より)


生島足島神社摂社諏訪社本殿及び門

この本殿は、棟札から慶長15(1610)年に上田藩主真田信之の寄進により再建されたことが明らかになっている。また、棟札には本殿の部材を一木からすべて作ったこと、大工棟梁が宮坂勘四郎であったことなども記されている。本殿全体の形式は正面の柱間が2.8メートルの規模の一間社流造で、屋根は銅板葺(元こけら葺)である。社殿の軸部は全体に彩色を施している。現在の塗装は昭和16年の塗り替えによるものであるが、当初からこのような塗装(朱漆塗、胡粉塗など)がされていたと考えられる。
この本殿は全体の建ちが高く、軽快な感じのする点が特徴である。向拝の頭貫上部にある蟇股(かえるまた:表側に竜、背面に雲を彫る)、扉の上方にある蟇股(雲・麒麟)に立体的で精巧な彫刻が施されている点、脇障子の上部に熨斗結びの透し彫りを入れている点など、この時代に中央で盛んになった桃山様式を表現している。
なお本殿手前前にある門も本殿と同時期の建築と考えられる。門は、当初は内部に床を張った諏訪系の神社にみられる「御門屋」の形式をとっていたことが痕跡から確認でき、この形式の門としては県内で一番古い。本殿・門ともに県内の桃山様式を伝える貴重な建築である。
(看板資料より)

 



2003年08月
15日

この生島足島神社には、武田信玄及びその部下の武将らの起請文が数多く残されています。これらは展示室に展示されているので無料で閲覧可能ですが原本ではなくコピーだと思います。残されている資料は大きく分けて2種類あり、一つは武田信玄が捧げて勝利を祈願した願状、もう一つは家臣らが信玄に対して忠誠を誓った起請文です。
■武田信玄の願状
 それまで3度対戦していた宿敵上杉謙信との決戦を覚悟し永禄2年に生島足島神社に願文を捧げて自軍の勝利と上杉謙信の滅亡を祈願しています。この時の願文には武田徳栄軒信玄と署名されています。2年後の永禄4年には第4回目の川中島合戦が行われています。
■家臣らの起請文
 武田信玄が改めて家臣に忠誠を誓わせたのは、長男義信との不和による家臣団の動揺を抑えるためと思われます。起請文差し出したのは信濃、上野、甲斐の237名にもおよび、ここには83通の起請文が残されています。

生島足島神社の歴史は非常に古く、平安時代に制定された延喜式に「生嶋足嶋神社二座名神大社」として記載されています。戦国時代には武田氏や真田氏が信仰を寄せ、江戸時代には歴代上田藩主の厚い庇護を受けてきた由緒ある神社です。
神社境内には、池に囲まれた小島の上に、権現造の本社(昭和16年)が北面して建ち、それに正対するように摂社諏訪社本殿(上田市指定文化財)が建てられています。本殿内殿は、かつては屋外に建てられていましたが、18世紀後期から19世紀初期の時期に覆屋としての本殿が建てられ、屋内の内殿となりました。
現在の内殿の規模は、桁行(正面)柱間三間(4.82m)、梁行(側面)柱間二間(3.10m)で、屋根は切妻造の厚板張り(当初は?葺)です。内部は、向かって左側二間が内陣、右側一間が外陣となっています。外陣は、諏訪大神が半年間、生島・足島両神にご飯を炊いて奉ったところと伝えられ、その伝承を受け継ぐ御籠祭と呼ばれる神事が現在も行われています。内陣の周囲は大部分が板壁で内外陣境に片引き板戸の潜り戸があります。正面中央柱間には片引き戸の戸口がありますが、当初は窓であったと推定されます。また、西妻(右側面)は、現在も壁も戸もない開放状態ですが、当初は向拝の土間が本神社の御神体とされています。これは、万物を育む大地を神として崇める最も古い神社の形式を伝えるものです。主要な部材は欅材で、表面は手斧仕上げの上を丁寧に削り磨いています。外面した部材の一部には朱などで彩色した跡が残ります。軸部は、粽・礎盤・大瓶束等を用いた室町時代の様式で、その特徴から建築年代は、天文年間頃と推定されます。
(看板資料より)


武田信玄武将の起請文展示場

●起請文とは、神仏にかけて誓いを立てた文書。そむいたらどんな罰をこうむってもよい、と記したものが多い。一般に熊野午王宝印という特殊な紙に書かれています。
●この起請文は永禄9〜10(1566〜1567)年、信玄が上杉謙信と対立しつつ、都へ攻めのぼる計画を始めた時期のもの。信玄に異心のないことを、そして上杉謙信に味方しないことを改めて約束させ、たくさんの神仏に誓わせた鬼気せまる内容です。
●信玄の弟から農村に住む地侍まで、甲州・信州・上州の230余名の武将が提出。少し変色した血判が色鮮やかにのこり、誓いの重さ、せっぱつまった状況など、当時の様子をはっきり伝えています。
●このように大量の文書が残っているのは全国的にもここだけ。生島足島神社(当時は下之郷大明神)は、式内大社で、古くから有力な神社でした。信玄はじめ戦国時代の武将たちの大きい信仰を集めましたが、今も境内の様子や行事は高い格式を保っています。
(看板資料より)


生島足島神社歌舞伎舞台

本舞台は、間口九間、奥行約七間その規模は本県内の江戸〜明治時代に建築された農村歌舞伎舞台のなかで最大のもの、全国的にみてもトップクラスに属する。正面右と左の中二階に「太夫座」及び「下座」を設け、内部のほぼ中央に半径2.4メートルの「廻り舞台」がつくられている。またその前方二ヶ所に「せり上り」がある。
後方の壁面には巾二間の窓があるがこれは背後の自然風景を舞台背景として利用するためのものである。観客席は舞台前方の平地で花道は舞台向かって左手に仮設した。
氏子の伝承によれば、本舞台は明治元年に建設されその後校舎、集会所等に利用されてきたが、最近その建築が江戸期農村歌舞伎舞台の典型的な姿をほぼ完全に伝えていることが検証され、長野県県宝に指定された。
(看板資料より)


生島足島神社摂社諏訪社本殿及び門

この本殿は、棟札から慶長15(1610)年に上田藩主真田信之の寄進により再建されたことが明らかになっている。また、棟札には本殿の部材を一木からすべて作ったこと、大工棟梁が宮坂勘四郎であったことなども記されている。本殿全体の形式は正面の柱間が2.8メートルの規模の一間社流造で、屋根は銅板葺(元こけら葺)である。社殿の軸部は全体に彩色を施している。現在の塗装は昭和16年の塗り替えによるものであるが、当初からこのような塗装(朱漆塗、胡粉塗など)がされていたと考えられる。
この本殿は全体の建ちが高く、軽快な感じのする点が特徴である。向拝の頭貫上部にある蟇股(かえるまた:表側に竜、背面に雲を彫る)、扉の上方にある蟇股(雲・麒麟)に立体的で精巧な彫刻が施されている点、脇障子の上部に熨斗結びの透し彫りを入れている点など、この時代に中央で盛んになった桃山様式を表現している。
なお本殿手前前にある門も本殿と同時期の建築と考えられる。門は、当初は内部に床を張った諏訪系の神社にみられる「御門屋」の形式をとっていたことが痕跡から確認でき、この形式の門としては県内で一番古い。本殿・門ともに県内の桃山様式を伝える貴重な建築である。
(看板資料より)

 

 
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