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群馬県安中市

板鼻城

2014年11月23日

鷹の巣出丸

碓氷川と九十九川の合流点より約1km下流の北岸台地上に位置し、板鼻には東山道や鎌倉街道が通り、交通の要所として、戦略的にも重要な拠点であった。築城については確実な史料が乏しく、箕輪城主長野業政の命による後閑城主依田光慶築城説、箕輪落城後の武田信玄築城説がある。天正18(1590)年の小田原攻めの際に上杉景勝により攻略されて廃城となった。東西約400m、南北約350mの螺郭式(螺旋壕式)と呼ばれる構造で、鷹の巣出丸・小丸田曲輪(郭)・古城遺跡等の支砦がある。
(西上州の中世より)

国道18号線の北側、九十九川との合流点に近い丘上にあって、板鼻宿を南眼下にみる。川岸数十mの断崖を鷹ノ巣と呼ぶが、その上には支砦(のろし台)があり、谷を隔てた東の丘に本城が築かれている。武田信玄が築き、依田肥前守(六郎)を置いたという。東の小丸田出丸は江戸時代初期、里見讃岐守義高一万石の陣屋となった。
 本丸は方90mで、周囲の空掘には「折」が多く、虎口は北面中央だけだったと思われる。この城の特徴は本丸堀を中心として放射する螺旋状の空掘で、それらは曲折して堀内における城兵の行動を秘匿し、敵兵の進入に際しては周囲の郭から常に縦射・側射を受けるように配されている。西北端の堀切には「折」があった。小丸田郭は70m×60m、比高9mある。
 この城は、長野業政が築き、依田光慶を後閑城から移したと伝えられているが、永禄9年、ここに展開された若田原の戦に、この城の存在が否定されることと、後期の形式なので無理であろう。
(日本城郭大系より)

 



2009年09月05日

国道18号線の北側、九十九川との合流点に近い丘上にあって、板鼻宿を南眼下にみる。川岸数十mの断崖を鷹ノ巣と呼ぶが、その上には支砦(のろし台)があり、谷を隔てた東の丘に本城が築かれている。武田信玄が築き、依田肥前守(六郎)を置いたという。東の小丸田出丸は江戸時代初期、里見讃岐守義高一万石の陣屋となった。
 本丸は方90mで、周囲の空掘には「折」が多く、虎口は北面中央だけだったと思われる。この城の特徴は本丸堀を中心として放射する螺旋状の空掘で、それらは曲折して堀内における城兵の行動を秘匿し、敵兵の進入に際しては周囲の郭から常に縦射・側射を受けるように配されている。西北端の堀切には「折」があった。小丸田郭は70m×60m、比高9mある。
 この城は、長野業政が築き、依田光慶を後閑城から移したと伝えられているが、永禄9年、ここに展開された若田原の戦に、この城の存在が否定されることと、後期の形式なので無理であろう。
(日本城郭大系より)

本丸の場所と思われるところ(上の写真)でご婦人に板鼻城について聞いてみたところ、城跡の形跡や記念碑などは残っていないとのことでした。上の写真の道路の部分が堀跡であると教えてくれました。

 

 
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