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山梨県大月市

岩殿城


2014年09月14日

明治12年に乃木希典が岩殿山に登っているが、正面の鏡岩を見て「兎も登れない」と感嘆したという。

岩殿山歴史景観保存地区
岩殿山は、山体に円礫岩の巨大な鏡岩があり、暖帯林と温帯林の混交する場所です。戦国時代の郡内領主小山田氏の要害城であり、中世の山城の典型的な「宝珠円形」の構造をなす重要な遺跡とされる史跡名勝地です。貴重な自然をみんなで大切に守っていきましょう。
(看板資料より)


岩殿山
岩殿山は9世紀の末、天台宗の岩殿山円通寺として開創されたと伝えられる。
10世紀のはじめには三重塔、観音堂、僧房その他の建物がならび岩殿は門前町を形成した。
13世紀に入ると、円通寺は天台系聖護院末の修験道のセンターとして栄え、その支配は郡内一円はもちろんのこと甲斐国中の山梨、八代の東部一帯、駿河国は富士郡付近まで及んだ。
16世紀に至り戦国大名領国制が成立する中で、武田、小山田両氏の支配を受け岩殿山は、岩殿城として、武蔵、相模に備える戦略上の拠点とされた。そして、1582年(天正10年)武田、小山田の両氏が滅亡すると徳川氏により利用されたが、同氏の支配体制の確立された17世紀のはじめには廃城となった。
その後円通寺は、その塔頭である常楽、大坊の両院が法灯を伝えていたが、明治の初め神仏分離政策によりそのあとを断たれた。
現在東麓には、三重塔跡、常楽院ならびに大坊跡その他が、また山頂付近には空掘、本城、亀ヶ池その他の遺構が残され、これらは日本修験道史上、また日本城郭史上貴重な資料とされている。
1972年(昭和47年)10月、山梨県は岩殿山を「歴史景観保全区」として指定した。
平成7年には、山梨県の文化財に指定された。
〜看板の資料より〜

岩殿城
岩殿城は、急峻にして険しい断崖をめぐらし、攻めにくく守りやすい戦国時代の難攻不落を誇る名城であった。
そのうえ、南方の桂川下流には相模、武蔵。西方の桂川上流には谷村、吉田、駿河。北方の葛野川上流には秩父などの山並みを一望におさめ、かつ烽火台網の拠点として、近くの国々の情報を即座に収集できる重要な場所に築かれている。現在この城跡には一番高く展望のきくところに本丸、その下に二の丸、三の丸、さらに蔵屋敷、兵舎、番所、物見台、馬屋、揚城戸などの建物跡のほか空濠、井水、帯郭、烽火台、馬場跡がある。
また、断崖の下にある七社権現、新宮などの大洞窟が兵舎や出丸として用いられ、兜岩から稚児落しへのルートは落城の道とされている。
これら多数の遺構は戦国時代の城郭史を研究するうえで貴重なものである。
〜看板資料より〜

山頂から大月市内の眺め


揚城戸跡

第二の関門とよばれ、巨大な自然石を利用して城門をきずいていた。
(看板資料より)


番所跡

雨、露をさけるための建物があり、揚城戸の番兵の詰所であった。
(看板資料より)


この頂部西端には礫岩の大露頭がみられた。史実として記録はないが、岩殿城の西の物見台とも。あるいは円通寺で研修する修験者の修行場ともいわれた岩であった。
しかし、長い年月の間に風化・浸食が進み、崩落の危険性が増大したため、頂部から高さ約8メートル下方まで(約300立方メートル)破砕撤去工事を施工し、平成11年3月完了した。
(看板資料より)


馬屋


馬場跡

本城内で一番広い面積を有し、馬や兵士の訓練場とされ非常にそなえた。
(看板資料より)


倉屋敷跡

武器や弾薬、食糧、燃料のほか生活用品などの保管がされた。
(看板資料より)


本丸跡

三箇所にある物見台を総合した本陣で防衛や進攻の指令を発した。
(看板資料より)


空濠

本丸の東側から進入する敵にそなえ、また日常の生活通路として利用した。
(看板資料より)

この先に進むと七社権現洞窟、岩殿円通寺跡に行けるそうですが山を下ってしまうのでその先には行きませんでした。円通寺は明治維新の廃仏棄却運動で消滅してしまいましたが当時は修験者の道場であったとのことです。岩殿山は城として機能する以前から修験者たちの修行の場であったのです。「ふれあいの館」の2階で上映していたビデオによれば、小仏峠を越えて滝山城に向った小山田軍の先導を努めたのもこれら修験者達だったのではないかとのことでした。


用水池

上の池を亀ヶ池とよび飲用に、下の池を馬洗池とよび馬や兵士の水浴用とした。
(看板資料より)




2004年12月26日

ふれあい館から見た鏡岩

明治12年に乃木希典が岩殿山に登っているが、正面の鏡岩を見て「兎も登れない」と感嘆したという。

岩殿山歴史景観保存地区
岩殿山は、山体に円礫岩の巨大な鏡岩があり、暖帯林と温帯林の混交する場所です。戦国時代の郡内領主小山田氏の要害城であり、中世の山城の典型的な「宝珠円形」の構造をなす重要な遺跡とされる史跡名勝地です。貴重な自然をみんなで大切に守っていきましょう。
(看板資料より)


揚城戸跡

第二の関門とよばれ、巨大な自然石を利用して城門をきずいていた。
(看板資料より)


番所跡

雨、露をさけるための建物があり、揚城戸の番兵の詰所であった。
(看板資料より)


この頂部西端には礫岩の大露頭がみられた。史実として記録はないが、岩殿城の西の物見台とも。あるいは円通寺で研修する修験者の修行場ともいわれた岩であった。
しかし、長い年月の間に風化・浸食が進み、崩落の危険性が増大したため、頂部から高さ約8メートル下方まで(約300立方メートル)破砕撤去工事を施工し、平成11年3月完了した。
(看板資料より)


乃木希典の碑

乃木希典が岩殿山に登ったときに詠んだ詩が石碑に刻まれている。
  欲問当年遺恨長
  英雄前後幾興亡
  巉巌千尺荒墟上
  仗剣帳然見夕陽
私は漢詩は読めないので内容は良く分からないのですが、夕日を見ながら亡んでいった小山田信茂の無念を詠んだものでしょうか? 

岩殿城跡案内図


南物見台からの大月市内

岩殿城から大月市内を見下ろしてみると麓を流れる桂川の谷が深くて驚きました。天然の堀として岩殿城を更に要害堅固にしています。麓の川に架かる橋を歩いてみると恐いくらいの断崖絶壁であることが分かります。


馬場跡

本城内で一番広い面積を有し、馬や兵士の訓練場とされ非常にそなえた。
(看板資料より)


倉屋敷跡

武器や弾薬、食糧、燃料のほか生活用品などの保管がされた。
(看板資料より)


本丸跡

三箇所にある物見台を総合した本陣で防衛や進攻の指令を発した。
(看板資料より)

本丸跡には放送局などのアンテナが立ち並んでおりその脇に烽火台がありました。本丸といっても規模は小さいものです。

烽火台


空湟

本丸の東側から進入する敵にそなえ、また日常の生活通路として利用した。
(看板資料より)

この先に進むと七社権現洞窟、岩殿円通寺跡に行けるそうですが山を下ってしまうのでその先には行きませんでした。円通寺は明治維新の廃仏棄却運動で消滅してしまいましたが当時は修験者の道場であったとのことです。岩殿山は城として機能する以前から修験者たちの修行の場であったのです。「ふれあいの館」の2階で上映していたビデオによれば、小仏峠を越えて滝山城に向った小山田軍の先導を努めたのもこれら修験者達だったのではないかとのことでした。


用水池

上の池を亀ヶ池とよび飲用に、下の池を馬洗池とよび馬や兵士の水浴用とした。
(看板資料より)

馬場から少し下ったところに井戸が2つ並んでいました。その先は断崖絶壁となっていて危険な場所です。このような断崖絶壁のところから水が湧き出ているのは不思議です。昔の人は本当にすごいところを探してくるものですね。

大手門跡は発見できず、その先に少し進んでみましたが、兜岩や稚児落しまではかなり時間がかかりそうだったので途中で断念しました。その後、再びふれあいの館まで戻ってきましたが大勢のハイキングの人たちが登る準備をしていました。

 



2000年10月14日

岩殿山
岩殿山は9世紀の末、天台宗の岩殿山円通寺として開創されたと伝えられる。
10世紀のはじめには三重塔、観音堂、僧房その他の建物がならび岩殿は門前町を形成した。
13世紀に入ると、円通寺は天台系聖護院末の修験道のセンターとして栄え、その支配は郡内一円はもちろんのこと甲斐国中の山梨、八代の東部一帯、駿河国は富士郡付近まで及んだ。
16世紀に至り戦国大名領国制が成立する中で、武田、小山田両氏の支配を受け岩殿山は、岩殿城として、武蔵、相模に備える戦略上の拠点とされた。そして、1582年(天正10年)武田、小山田の両氏が滅亡すると徳川氏により利用されたが、同氏の支配体制の確立された17世紀のはじめには廃城となった。
その後円通寺は、その塔頭である常楽、大坊の両院が法灯を伝えていたが、明治の初め神仏分離政策によりそのあとを断たれた。
現在東麓には、三重塔跡、常楽院ならびに大坊跡その他が、また山頂付近には空掘、本城、亀ヶ池その他の遺構が残され、これらは日本修験道史上、また日本城郭史上貴重な資料とされている。
1972年(昭和47年)10月、山梨県は岩殿山を「歴史景観保全区」として指定した。
平成7年には、山梨県の文化財に指定された。
〜看板の資料より〜

頂上一歩手前のところの揚城戸門です。
自然石を利用した城門だそうです。

岩殿城
岩殿城は、急峻にして険しい断崖をめぐらし、攻めにくく守りやすい戦国時代の難攻不落を誇る名城であった。
そのうえ、南方の桂川下流には相模、武蔵。西方の桂川上流には谷村、吉田、駿河。北方の葛野川上流には秩父などの山並みを一望におさめ、かつ烽火台網の拠点として、近くの国々の情報を即座に収集できる重要な場所に築かれている。現在この城跡には一番高く展望のきくところに本丸、その下に二の丸、三の丸、さらに蔵屋敷、兵舎、番所、物見台、馬屋、揚城戸などの建物跡のほか空濠、井水、帯郭、烽火台、馬場跡がある。
また、断崖の下にある七社権現、新宮などの大洞窟が兵舎や出丸として用いられ、兜岩から稚児落しへのルートは落城の道とされている。
これら多数の遺構は戦国時代の城郭史を研究するうえで貴重なものである。
〜看板資料より〜

この後、バビデ氏とは分かれて我々は再び中央高速に乗って長坂インターでおりて今日の宿泊地である小諸へ向った。途中、海ノ口城跡の看板があったので行ってみたが、すでに暗くなってしまっていて何も見つけることは出来ませんでした。残念。19時過ぎには小諸に到着し、この日は小諸ロイヤルホテルに宿泊しました。

 

 
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