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兵庫県西宮市

鷲林寺


2008年05月05日

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鷲林寺略縁起
當寺は人皇53代淳名天皇の勅願にて天長10(833)年弘法大師空海により開創された真言宗の寺院です。観音霊場を開こうと地を求めて旅をしていた大師が廣田神社に宿泊されていたとき、夢枕に仙人が現れこの地を教示されました。それに従い入山したところ、途中でこの地を支配する「ソランジン」と呼ばれる大鷲が現れ、火焔を吹き大師の邪魔をしました。大師は木の枝を切り、湧き出る清水にひたして加持をし、大鷲を桜の霊木に封じ込めました。その霊木で本尊十一面観音像並びに伽藍守護神として鷲不動明王を刻み、寺号を「鷲林寺」と名付けられました。また大鷲に化けた「ソランジン」は麁乱荒神としてまつられました。その後貴族寺院として大いに栄え、盛時は寺領70町歩・塔頭76坊の大寺院に成長し、その寺領が鳴尾地方にまで及んでいたことが古文書などによって伺えます。しかし戦国時代に入り寺領は侵略押収され、天正6(1578)年11月に荒木村重の乱が起こり、それを期に翌7年織田信長のために諸堂塔はすべて焼き滅ぼされてしまいました。本尊をはじめとする仏像は瓶に入れ地中に埋め隠されていたため兵火から逃れることができました。後に掘り出され小堂宇を建立し観音堂としましたが、その後も幾多の山津波や火災に遭い、無住の時代が長く続きました。昭和の時代に入りようやく復興され始め現在に至っています。
また時期は不祥ですが、武田信玄公が僧侶になるため得度をし、その頭髪を埋めたという伝説がある七重の石塔があり、西宮市の文化財に指定されています。
(看板資料より)

兵庫県西宮市の鷲林寺に信玄公の墓があるとのことでしたので立ち寄りました。朝早く到着したのですが既に参拝者や水を汲んでいる人などがいました。お寺はかなり立派でした。真言宗のお寺とのことで四国八十八ヶ所お砂踏みというものなどがありました。信玄公の墓はお寺の入口の正面から入ってすぐ右側にありました。入口には信玄公の墓と書かれていましたが、現地の看板には石造七重塔と紹介されていました。なんでこんなところに武田信玄の墓があるのか不思議でした。その後本堂に行って見ると住職の方らしき人がいたので声をかけてみたのですが、本堂の中に人がいるのでそちらで聞いて欲しいとのことでしたので武田信玄の墓について聞いてみました。しかしお寺には資料はなく、鷲林寺と武田信玄との関係についても特にないとのことでした。その後図書館に行って鷲林寺の石造七重塔に関する資料について聞きましたが職員の方が色々な本を探してくれました。

石造七重塔(武田信玄の墓)

石造七重塔
花崗岩製の七重塔で、相輪のみが後補です。基礎石下から七重目上端までは約2.5mあり、各重のバランスがよく安定感があります。初重の軸石には金剛界四仏の種子を四方に刻んでいます。種子の彫り方や各重の軒先の形式から、この塔が作られたのは13世紀終わりから14世紀初めと考えられ、市内最古の石造遺品です。
(看板資料より)

石造七重塔
観音堂から少し下がった墓地の西南隅に市指定文化財の石造七重塔が立っています。花崗岩製の七重塔は高さ約2.5mあり、一部欠損していますが各重均整のとれたもので、軸石の四面には大きく薬研彫りで金剛界四仏の種子を配しています。これは様式の上から鎌倉時代の作と考えられ、一説に、武田信玄の墓と伝えられますが、鷲林寺町一帯に武田・上杉両氏の家臣が住んでいたところから出た伝説といわれます。
(西宮の文化施設案内より)

石造七重塔
参道に面した墓地に武田信玄の墓と伝えられる石造の七重塔がある。市内最古の石造品で、高さ約2.5m、一部を欠損している。軸石の四面には大きく薬研彫りで金剛界四仏種子を配している。七重塔と武田信玄の時代は一致しないが、甲斐氏との関わりなども推測され、当寺の歴史をおもしろいものにしている。
(新西宮の文化財より)

 
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