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長野県上田市

海善寺

2011年12月
30日

海禅寺はその草創は少なくとも平安前期にさか上ると推定され、上田小県地方切っての古刹である。今の東御市に海善寺という集落があるが、これは開善寺(海禅寺の旧名)があったから名づけられた地名である。
開善寺は古くから皇室と縁の深かった滋野氏や、その系統を伝える豪族海野氏の祈願所として栄えた。
戦国時代、武田信玄が小県郡を平定したとき、まず願文を捧げたのは、名社生島足島神社と、この開善寺であった。
その後、天正年間、真田氏の上田築城に当たり開善寺は、城の東北(鬼門)に移され、海禅寺と改称、上田城下町鎮護の寺となった。以降四百年その間、学問所が設置され、談林所としての役を果たし県下真言宗の名刹として今日に至っている。
(看板資料より)

開基は清和天皇の第5子滋野貞元で、承平5(935)年に建立されたという。甲斐の武田信玄が天文年中(1532〜55)に再建した。そこで中興の開基とする。
(長野県の武田信玄伝説より)


当寺の創建
当「海禅寺」は、もと海野庄にあって「海善寺」といい、即ち小県郡和村海善寺(今は東部町大字海善寺)にあったのであるが、天正11(1583)年真田安房守昌幸が上田城を築城したとき、城の鬼門除けのため大手の東北にあたるこの地に移転建立したのである。
移転以前の海善寺はこの地方第一の豪族海野氏の檀那寺であって、その創建は貞観年中(859〜876)にさかのぼるという。
武田信玄との関係
かくして当寺は海野氏とともに栄えること六百余年に及んだ。ところが天文10(1541)年甲斐の武田信虎が信州佐久郡へ攻め込んだのを機会に、永年海野氏と勢力を争ってきた埴科郡葛尾城主村上義清と諏訪の領主諏訪頼重とが互いに武田軍と策応して海野氏を攻め、海野平は大合戦場となり、ついに5月海野氏は敗れて一族みな散亡してしまった。この時海野城、禰津城などみな焼かれてしまったというから、当海善寺も焼かれたであろうと思われる。
その後海野氏の支族である真田一徳斉が武田信玄に帰属し、海野氏の遺族も続いて武田氏に仕えるようになると、信玄は村上氏を攻めるために彼らを優遇し、旧所領を与えることとした。その時海善寺は復興することになった。即ち、寺伝によれば当寺は天文年間(1532〜1554)信玄によって再建されたとある。
信玄は、信州経路を着々と進め、天文22(1552)年には村上義清を越後へ追い落として川中島へ進出した。そしてそれから上杉謙信としばしば兵を交え、8年後の永禄4(1561)年には大合戦をやることになったが、その翌年永禄5(1562)年11月7日本寺を祈願所とし、寺領若干の外、隠居分5貫文を寄進。永禄6(1563)年十坊太鼓免として16貫5百文を寄進。この2通の書は生島足島神社の第一、第二に続く、第三、第四号であるとの由。昭和54年4月9日付けで「市指定文化財」に指定される。
これによって信玄が当寺に戦勝祈願を命じたことが分かり屈指の名刹として尊重されていた知られる。なお、ここに開善寺とあるのは文字にとらわれず「かいぜんじ」の音に従って書いたものかと思う。当時の武将などの文章にはこの例が多い。しかし或いは信玄が再興後、「海」を「開」に改めたかもしれないことは、当時の古文書に「海野開善寺」という記載があり、また真田家の上田時代の文書にも開善寺と書かれているのである。
次にその翌年、永禄6(1563)年7月28日、十坊並びに太鼓免参拾六貫5百文を寄付せられ、武運長久を祈願した旨の文書がある。
真田家との関係
このように武田信玄の祈願所として尊重されたが、その後武田氏は勝頼の代に至って天正10(1582)年織田信長と徳川家康の連合軍に攻め滅ぼされ、海野氏の衣鉢をついだ真田昌幸は一族を挙げて徳川家康に従うことになり、そして天正11(1583)年居城を上田に築いて砥石城からこれへ移った。このとき海野郷にあった海善寺を上田城の鬼門除けとして移転建立することにした。
慶長5年秋、関が原の合戦がおこり、真田家は安房守昌幸と次男信繁とが西軍に味方し、長男の信幸が東軍についたが、西軍が敗北したため昌幸、信繁は高野山に配流され、家督は信幸のつぐところとなった。そこで信幸は上田領の寺社にそれぞれ所領を知行したが、当寺に対しては24貫文の寺領安堵の書状が慶長6年8月16日与えられた。即ち信幸も文書中に開善寺と書いているのである。
ところがそれから22年、元和8(1622)年に至って真田家は松代へ移封を命じられ、家中すべて松代へ移ることになり、開善寺も松代城外西条に移ることになったが、その時真田氏由緒の上田城の護りには一寺が無ければならぬとし真田信之公は寺号を「海善寺」と改めて当寺を残された。
(お寺のパンフレットより)

寺領安堵状

永禄6年、武田信玄による寄進状

海善寺の境内で掃除をしている方がいたので話しかけてみたら住職を紹介してくれました。横浜から来たことを伝えると色々なことを教えてくれました。
また本堂にある武田信玄による寄進状などの写しも見せてもらうことができました。本物は市の博物館に保管されているのだそうです。

 

 
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