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埼玉県上里町

金窪城

2005年05月01日

金窪城跡は、神流川に臨む崖上に残る平城の跡で、別名たや城とも呼ばれた。平安末期の治承年間(1177〜1181)に武蔵七党の一党である丹党から出た加治家治の構築と伝えられ、元弘年間(1331〜1334)に新田義貞が修築して、家臣の畑時能に守らせたという。室町中期の寛正年間(1460〜1466)には斎藤実盛の子孫といわれる斎藤盛光が居城した。天正10(1582)年6月、滝川一益と北条氏邦の神流川の合戦において、一族ことごとく討死にし、城も兵火にかかって焼失し斎藤家は没落した。その後、徳川家康の関東入国にともない、川窪氏の所領となり陣屋がおかれたという。川窪氏は元禄元(1698)年丹波国に転封となり、陣屋も廃されたという。現在、城跡の大部分が畑地や雑木林に変わっているが、所々に遺存する堀や土塁の一部に戦国のむかしをしのぶことができる。
(看板資料より)

金窪城跡は陽雲寺から少し北に行ったところにありましたが、上の写真の石碑があるところは本当に小さな一角でした。道路を挟んだ向かいには金窪城址公園があり公園内には神無川合戦について書かれた大きな看板がありましたが、川窪氏の陣屋のことについて書かれた物は何もありませんでした。

 

 
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