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長野県茅野市長野県高遠町

金沢峠

2005年08月27日

金沢峠への入口

 

上伊那郡高遠町と茅野市金沢(旧金沢宿)を結ぶ峠で、松倉峠ともいう。標高1315mである。この峠は中世以来、諏訪と上・下伊那を結ぶ重要な交通路で、鎌倉幕府に仕えた伊那の藤沢氏一門は、藤沢谷から金沢峠を越えて鎌倉に赴いたといわれ、正嘉2(1258)年、下伊那の知久信貞が幕府的始めの射手に選ばれて鎌倉に赴いたのは高遠経由のこの道(鎌倉道)と伝えられている。また元亀3(1572)年、武田信玄が大軍を率いて甲州から伊那路を遠江に向った道も大池から金沢峠越えであったと語り伝えられている。江戸時代の元禄(1688〜1704)ごろから、この峠を通る道は、飯田藩、高遠藩の参勤交代の公道に指定された。金沢宿より江戸へは48里半の里程となっている。峠の東側には天正8(1580)年の銘のあるお地蔵様と、8合目付近の中峠(辻ヶ峰)には「右江戸道、左山道」と刻んだ道しるべがあり、庶民も甲州・江戸方面へ行くにはこの峠を通った。
この付近は、高島藩と高遠藩の境で通称「分杭平」と呼び、境界の杭を立てる時には両藩の役人が立ち合い、庶民も見物に集まり、屋台店が出たり踊りが行なわれたと伝えられる。この峠道は通称塩の道ともいわれ、江戸時代から中央線開通までは、毎日高遠の中馬が数十匹金沢峠を大豆をつけてきて、帰りには多くの塩をつけていったという。
(看板資料より)

杖突峠からゴルフ場方面に進み、千代田湖を経て金鶏金山に向かう途中にちょうど車を止められる空き地があり、そこに金沢峠の説明看板がありました。そこから金沢峠への狭い道がありましたが峠まで1.6kmとのことであり車での突入を試みました。途中道が2つに分かれているところあたりでどうにも身動きができなくなってしまったのでUターンして帰ってこざるをえなくなり金沢峠にたどり着くことはできませんでした。

 

 
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