| 春日山城 |
2000年7月20日
上杉謙信公の居城として知られる春日山城は、今から約600年程前の南北朝時代に築かれ、越後府中を守る拠点であった。その後、謙信公の父為景公、謙信公、景勝公の三代にわたり普請に務め、現在見られるような大城郭になったと考えられている。春日山城の特徴は、山頂の本丸跡から山裾まで連続する屋敷跡群と、裾野に巡らされた総延長1200mの総構え(通称監物堀)である。 |

千貫門

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春日山城の古絵図に必ず描かれている門が千貫門である。それはこの門が古くから知られていたことを物語っている。今でも門が立っていたと考えられる部分のみ、土塁が分断されていて、春日山神社側からクランク状の道がここに通じている。 |
直江屋敷跡

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上杉家の重臣直江家の屋敷と伝えられ、お花畑から千貫門までの間に上下三段の郭が作られています。現在は遊歩道があって使われなくなっていますが、郭と郭をつなぐ古道も残っています。 |
毘沙門堂

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この御堂には謙信公の信仰された毘沙門天の尊像(青銅製、約50cm)が安置されています。尊像は景勝公のとき会津を経て米沢に移りましたが、嘉永2年の火災で傷みました。昭和3年に第15台上杉憲章氏が東京美術学校に修理を依頼され、高村光雲先生が1年余を費やして修理いたしました。 |
護摩堂跡

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謙信が出陣前に毘沙門堂にこもったことはよく知られていますが、戦勝や息災を祈祷したのが護摩堂です。護摩の修法は毘沙門天の信仰とともに謙信が真言密教を深く信仰していたことを如実に物語っています。 |
本丸

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南隣の天主台とともに春日山城の「お天上」と呼ばれていたところです。標高180mの本丸からは、かつての越後府中(直江津)と周辺の山々の支城や日本海が一望できます。 |
井戸曲輪

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廃城後400年の星霜を経て、今なお満々と水をたたえる大井戸は、春日山城が山城として最適の地に造られていることを教えてくれる。城の古絵図にもここだけに井戸の記号で示しており、古くから注目されていたことが分かる。 |
油流し

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本丸の西斜面は人の侵入を拒んでいるような急斜面となっていて「油流し」と呼ばれています。あまりの急斜面で滑ってしまうことから、油を流した時のように滑りやすい斜面の意味で名付けられたのかもしれません。(看板資料より) |
二の丸屋敷

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本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る実城と呼ばれる郭群の東裾を取り巻くように作られた郭で、実城とともに春日山城の中心地区を成しています。本丸の直下にあって、本丸を帯状に囲っている様子は、まさに本丸の警護として造作されたことを示すものと考えられています。 |
上杉三郎景虎屋敷

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上杉謙信の死後、跡目を争った「御館の乱」で破れた悲劇の武将三郎景虎。小田原城主北条氏康の子で、人質として春日山城に来ました。謙信から景虎の名を与えられたことでも、人質としては破格の待遇であったことが分かります。また、美男として伝えられています。
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