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高知県香美市

武田四郎勝頼墓


2008年05月4日

武田神社

大法寺には観音堂と向って右側には白山神社がありましたが武田勝頼墓はどうしても見つけることができませんでした。鳥居から階段を下って行きましたがその先には道がなくて恐くなってきたので断念しました。しかしせっかく高知まできたのでなんとか探し出そうと思い、さきほど見かけたおじさんのところまで歩いて戻りました。そしておじさんに武田勝頼墓のことを聞いてみたらお墓は大法寺の下にあるとのことでおじさんの車で現地まで案内してくれることになりました。再び大法寺に来てから少し戻り、お墓の真上からお墓を確認することができました。また武田勝頼墓に降りていく入口も教えてもらいました。ちょうど大きな竹の子があって目印になりました。おじさんはそまま帰り、私は一人でその坂道を下っていきました。すると武田神社と書かれた鳥居があってその奥には武田四郎勝頼墓碑がありました。その後には小さな石塔がたくさん山積みになったものがありました。役場の方も眉唾ですからと言っていたので信憑性は低いのかもしれませんが、こうやって武田四郎勝頼と彫られた墓石があり田神社がありた武田勝頼が落ち延びてきたという伝説があるという事実に興味を持ちました。真偽は別としてこの時だけは武田勝頼が落ち延びてきた時のことを思い浮かべながらお墓に向って手を合わせたのでした。
参拝を終え、来た道を帰る時に先ほどのおじさんと再び会うことができました。おじさんは私のために新聞記事を用意してくれていたのでした。それは高知新聞の2007年1月1日の記事でちょうど2007年は大河ドラマで風林火山を放送した年なので武田氏と土佐との特集記事ようでした。語り継がれる勝頼伝説と題され興味深く読ませて頂いていたところ、もしよければ持っていってもいいですよといってくれたでそ新聞記事を全部頂きました。大法寺の武田四郎勝頼の他にも仁川町の鳴玉神社のことや板垣垣助、三菱の岩崎弥太郎などのことについても色々紹介されていました。このような貴重なものを快くご提供頂き本当にありがとうございました。

武田四郎勝頼墓

武田勝頼墓
大法寺白山神社の下に「武田四郎勝頼墓」の石碑がある。吾川郡大崎村字川井に鎮座の村社河井神社の境内に鳴玉神社がある。祭神を玄蕃頭比古神という。この玄蕃頭は大崎村の始祖で昔から村民の崇敬を受けている。神社明細帳によると、大崎城主大崎玄蕃と云有、居城址に八幡宮の杜ありて、木偶子類社間に納む、希世の古物なり、里諺に大崎玄蕃は武田勝頼の変名なり、則勝頼墓もあり、木偶子は勝頼自ら携え来ると云々とある。
武田勝頼は天目山の一戦に大敗し、近臣と共に自殺せんとした処、この時高坂某という部将が之を諌め自ら武田勝頼と称して敵中に躍り入って、花々しく身代り戦死を遂げた。勝頼はそこで側近の従者を召し連れ、甲斐の国を遁れて諸所方々を潜行して武運回復をはかったが果さず、放浪漂泊すること数年、土佐に来り山田城主山田丹波守を頼って、この大崎に移住し、自ら大崎玄蕃と称し、大いに兵を養い、遂に吾川高岡の北部を領有して大崎城主となった。山田丹波守は玄蕃守の名声日に高くその勢力侮るべからざるを見て、後日の災難を恐れてこれを殺害せんと企て、或日彼を甫喜山の猪狩に誘い、矢立ずの杜という所で、臣下に命じて銃殺したと言い伝えられている。現在大法寺の峯という所に勝頼の墓があると。現在大崎村には玄蕃踊りという踊りがあり、この歌は玄蕃の礼讃や大崎村の人情風俗をうたったものである。其の一節に「大崎玄蕃殿、十七太刀ををかたいだ、弓はこうかたげ、たちはこうかたげ、たちは備前太刀、鞘もなし、のたちうち、さやのことはまあ云うな、さやはここにかまえた」
武田氏滅亡は天正10年3月11日であり、山田氏滅亡は天文12〜23(1543〜1554)の間であるので、武田勝頼の滅亡は山田氏滅亡より約30〜40年後であり、勝頼が天目山で敗れた時は山田氏既に滅亡後であるので、この伝説が誤りであることは明らかである。この伝説が生まれた原因は、山田氏が甲斐源氏と関係が深かったところから生まれたものであろう。(南路志所載吾川郡仁村庄屋弁S家系信義条。大楠植村誌大法寺村条所載)大法寺居住の時武田勝頼の名を改め、矢野民部信義と称したと。(新自由社刊、土佐伝説全集)
土佐山田町史より


→大法寺

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