←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→

山梨県南部町

葛谷城の旧跡

2010年03月22日

武田信玄の供養塔

南部町教育委員会は、ここ葛谷峠に戦国時代の狼煙場や武田信玄の供養塔があったことから、昭和52年に「葛谷峠狼煙場跡」として町の文化財に指定した。
その後、この周辺全体が静甲工業株式会社の所有地となり、その開発に伴い、この史跡が消滅する恐れが出たので、南部町では文化財保護法に基づき、同社の全面的な協力を得て「葛谷峠埋蔵文化財発掘調査団」を組織し、平成2年から同3年にかけて徹底した発掘調査を実施した。
その結果、ここは土塁をめぐらせた一の曲輪・二の曲輪・東の曲輪や曲輪の周りを取り囲んだ空掘などを備えた山城跡で、まさに葛谷城と呼ぶにふさわしい大規模な遺構であることが判明した。
戦国時代の永正12(1515)年頃、駿河の国主今川氏によって築城された山城は、永禄10(1567)年以後甲斐の国主武田氏によって規模が拡大され、再構築されたものと考えられる。
なお、一の曲輪にあった武田信玄の供養塔は慶応年間に、また、旧道の峠にあった題目碑(一石経碑)は文政12年に、十島村の住民によって建立されたものである。題目碑は、日蓮上人の五百五十遠忌を記念したもので、その下には直径数センチの偏平の河原石に法華経の経文を一字ずつ書いたものが約五万点埋められていた。
この度、発掘事業が完了するにあたり、この信玄供養塔及び題目碑を永く保存するため一つにまとめこの場所に整備した。
(石碑記載文章より)

題目碑

 
←前のページへ トップページ↑ 次のページへ→