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山梨県北杜市

小荒間古戦場跡

2013年10月13日

信玄公御座石

天文9(1540)年2月、信濃の村上義清方の軍勢3500余が小荒間に押し寄せ近郷を焼き払ったので、武田晴信(信玄)は旗本を率いてこれと合戦し、勝利を得た所といわれている。晴信が本陣を敷いた所を「中屋敷」という。「御座石」、「遠見石」、「鞍掛石」などがあり、西方には「耳塚」と呼ばれる塚がある。このあたり一帯より鏃、仏像、兜などが発掘されたと伝えられている。信玄の軍用道路といわれている「上の棒道」は、この古戦場の近くを南東から西北に延びている。
(看板資料より)

信玄公遠見石



2008年04月05日

以前に来た時とほとんど同じような状態でした。小荒間古戦場跡の石碑の近くに休憩所があってその傍らには信玄公御座石があり、少し奥に行くと信玄公鞍掛石がありました。更にその奥には信玄公遠見石があってその先には小海線の線路がありました。左側の奥の方に進んで行くと祠がありました。
甲陽軍鑑の品第二十一に、甲州小荒間合戦の事というのがあります。それによると、天文9年2月18日に村上軍は、清野、高梨、井上、隅田の4大将により総勢2千5百余の軍勢で甲州小荒間まで攻め込んできて付近を焼き払いました。しかしこのとき多田三八の献策により同日夜に合戦をして武田方が勝利したとのことでした。

 



2003年08月30日

 

天文9(1540)年2月、信濃の村上義清方の軍勢3500余が小荒間に押し寄せ近郷を焼き払ったので、武田晴信(信玄)は旗本を率いてこれと合戦し、勝利を得た所といわれている。晴信が本陣を敷いた所を「中屋敷」という。「御座石」、「遠見石」、「鞍掛石」などがあり、西方には「耳塚」と呼ばれる塚がある。このあたり一帯より鏃、仏像、兜などが発掘されたと伝えられている。信玄の軍用道路といわれている「上の棒道」は、この古戦場の近くを南東から西北に延びている。
(看板資料より)

御座石

鞍掛石

遠見石

 

天文9年の小荒間合戦?というのは甲陽軍鑑に記載されているものだそうで歴史的事実は疑わしいのだそうです。古戦場の案内看板の奥には休憩所があって奥に向かって順番に御座石、鞍掛石、遠見石があります。遠見石の先にはすぐに小海線の線路があります。

 

 
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