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長野県安曇野市

小岩嶽城

2003年07月05日

小岩嶽城址について
当城は、中世の古厩郷の領主古厩氏の宿城と考えられ、城域は、今の小岩岳集落も含めた広範囲とされ、現在も集落内には空掘の一部と地割が見られます。また本郭は約1平方キロメートル、その平は南北135メートル、東西40メートル、北に天満沢、南に富士尾沢と空掘を控えた自然の要害です。
全面に三段の郭、山頂に至る間にいくつかの帯郭、掘切を設け、水源もあり矢竹も自生し、峯の物見は安曇野を一望に収める有名な山城です。
高白斎記によると、天文20(1551)年10月27日武田晴信の軍勢に攻められ、放火されました。翌天文21年8月12日の激戦で城主は自害し、8月14日落城しました。この時の戦いの様子は、勝山記(妙法寺記異事ナシ)に「打取ル頚500余人、足弱(婦女子・老人のこと)取ル事数ヲ知ラズ。」と悲運な最後が記されている。
(看板資料より)

小岩嶽城址公園について
当公園は、小岩嶽城址(穂高町文化財指定)を後世に伝え残すとともに、町の新しい観光施設として、整備されました。
園内には、「砦門」や城址広場の「四阿」が、砦門左奥には、安曇野を一望に見渡せる「のろし展望台」があります。いずれも後世の平城(鉄砲普及後)をイメージし、観光事業の一環として建造されたもので、実際の小岩嶽城の砦門は、弓矢を主流として戦いをしていたことですので、まなり規模の小さいものだったと推察されます。
(看板資料より)


のろし展望台

のろし展望台からの景色

現在の松本市周辺は代々信濃守護である小笠原氏が治めていましたが、天文20(1551)年に武田信玄による信濃府中進攻によりほとんど合戦することなく現在の松本市周辺はほぼ武田氏の勢力範囲になりました。しかしそんな中で小岩嶽城は武田に従わなかったために攻められることになり、上記の通り徹底的に攻撃されたのでした。
信玄は佐久地方での反抗者に対する徹底的な強い姿勢に比べ安曇野方面はよく善政を施したという話を聞きますが、反抗する者に対する姿勢は基本的に同じだったようです。情けは味方、仇は敵なりを実践したのでしょうか。

小岩岳城見取図

小岩嶽城は穂高駅から穂高温泉郷方面に向かって進み、しゃくなげ荘を通り過ぎて少し行くと左側に小岩嶽城址公園入口の看板があるのでそこを入っていくとすぐに駐車場があります。駐車場には砦門があり、ここから左奥に行くとのろし展望台で、右奥には神社や、城址の遺構らしきものを確認することができます。神社の境内の奥から更に上に登って行けそうな感じでしたが雑草と虫と突然の蜂の襲来で撤退しました。神社の横の公園らしきところには、「小岩嶽城戦没者各々霊位供養塔」という卒塔婆があったので思わず合掌しました。のろし展望台は駐車場から少し歩いたところにあり、一番上の展望台からの景色は最高でしたが、当時この城下に現れた武田の大軍を見たであろうこの城内の人々のことを思い、なぜこの城だけは降伏せずに最後まで戦ったのだろう?と考えさせられました。

 

 
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