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長野県富士見町

九ツ塚跡

2016年12月18日

九ツ塚は、瀬沢合戦の戦死者を葬ったものと伝えられる。瀬沢合戦とは『甲陽軍鑑』によれば、およそ次のような合戦のことである。
天文11(1542)年2月、信濃の小笠原・諏訪・村上・木曽の四大将は甲斐の武田晴信(信玄)を攻めようと合戦し、甲信境の瀬沢に陣取った。この動きを察知していた晴信はひそかに軍勢を発し、3月9日朝、信濃勢の不意をついた。戦いは辰の刻(午前8時)に始まり未の刻(午後2時)に終わり、武田軍は信濃方1621を討ち取って大勝したが、味方にも多数の死傷者を出した。
その戦場となったのは、瀬沢を中心に新田原から横吹におよぶ広い範囲と考えられる。
江戸初期に成立した甲陽軍鑑の記述には、実際の年次と合わない点がある。また、同時代の記録に瀬沢合戦のことは見当たらない。しかし、地元にはその伝承と合戦を裏付けるものが存在するのである。
その一つが、ここ横吹の西の口、武智川と中山の中間にあった九ツ塚で、戦死者の屍を九つの穴に埋めて塚を造ったと伝えられる。
明治9(1876)年の記録(『長野縣町村誌』)には洪水で3つが失われたとあり、更にその後の洪水や田普請などで失われ、最後に1つが残った。しかしその塚も、昭和34年の伊勢湾台風の災害復旧のために掘り取られた。現在地より横吹側げ約38メートル、道路の左端あたりである。今はその塚の上に建てられていた梵字を刻んだ石搭が現在地に移されている。ほか、近傍には宝篋印塔の笠と相輪が一基ある。古老の言によれば大正の初めころまで甲州より墓参りに来ていたという。
(看板資料より)

現地の近くで畑作業をしていた方に話を聞いてみました。すると九ツ塚周辺にあった石碑等は千鹿頭神社の前に移設されたというので早速行ってみました。するとそこには石碑移転竣工記念・平成26年6月と刻まれた石碑がありその周辺には移転されたと思われる石碑等が置かれていました。

 



2007年04月15日

横吹新田耕地の民家の西近傍にある。天文年中に武田が、諏訪・小笠原・木曽の連合軍と戦った時、戦死者の死骸を埋めた墳墓だといわれている。この塚は数が9つあったが、今なお6つが残っている。3つは武智川が洪水の時に流出してしまった。
(長野県町村誌・信州の伝説・長野県の武田信玄伝説より)

瀬沢合戦に数多の戦死者が出たので、大きな穴を9つ掘って、この中に屍を埋め塚を造ったので、9つ塚の名が起きた。しかしながら武智川の大洪水のために流出して、一塚だけが残存している。塚の上には自然石に梵字を刻した石碑がたっている。その近傍に宝篋印塔が1基ある。古老によれば「100年くらい前までは、甲斐より我が祖先が戦死したのを埋めた墓だといって墓参していた。今は疣(イボ)神様」といって、この中の水を疣につければ忽ち全快する」といって来る者が多いという。
(長野県の武田信玄伝説より)

九ツ塚は瀬沢古戦場の近くであろうと思って目的地を瀬沢古戦場にして現地に向いました。国道20号線を富士見町から信濃境方面に進むと途中で大きく曲がりながら下って行くところがありますがそこが瀬沢古戦場です。その少し手前から右側に入っていってしらかば園を通り過ぎたあたりで地元の人に九ツ塚について聞いてみました。最初に聞いた方はよく分からずその人から別の人を紹介してもらいました。彼の話によれば九ツ塚というのはもともとしらかば園の中にあったものを移設したとのことでした。横吹方面に行けば見つけることができるとのことで行き方も教えてくれました。
現地の案内板等によれば近傍に宝篋印塔と相輪があるとのことでしたが、残念ながら案内板の内容を帰宅後に読んだのでこの時現地で探すことなく去ってしまいました。もう一度訪問して疣神様とともに探索したいと思います。

 

 
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