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山梨県北杜市

古宮城

2008年01月03日

此の地は甲斐国志が記す古宮の城迹である。戦国時代の頃、武田家に仕えて甲信の国境警護に任じた武士団津金衆の旗頭津金氏歴代の居城で城迹の規模は縦118間(212m)横65間(117m)二重の湟を回らしていた。室町後期文明年間、常陸佐竹氏の一族薩摩守胤義とその子美濃守胤秀が武田信昌を慕って来甲し、戦功により津金郷に封ぜられ、苗字も佐竹を津金と改めた。津金氏は世々人材を輩出し、津金衆の旗頭として功多く、主家武田滅亡後は、徳川家康に属して各所に殊勲を立て、望まれて尾州藩に仕えた。ついで城は廃され、城迹と古宮の社は地域守護の要地霊社とし、氏子が維持している。明治学制の頒布に伴い、同8年地を古宮城迹に相し堅牢豪華な藤村式校舎を完成し、同校舎は星霜115年の今尚儼存している。
(石碑記載文章より)

津金衆の拠点として古宮城が津金にあるとのことで立ち寄ってみました。場所は公民館の裏にある神社でした。階段を登るとすぐ左側に石碑があって古宮城と書かれており、裏側にはその由縁が書かれていました。神社の左側から奥に回ってみると奥は少し高くなっていて横は堀が二重に掘られていました。奥は崖になっていてその下は川になっていました。

 
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