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埼玉県小鹿野町

光源院

2013年01月04日

開創以来四百五十有余年の法城として、今にその伝統を伝えている萬松山光源院は、山梨市永昌院開基武田信昌公五世敬翁性遵禅師によって享禄元(1528)年に開かれ、新羅三郎義光公の後裔甲斐源氏逸見若狭守義綱公が開基である。
爾来、祖風と伝承して法燈連綿、歴住二十四世を経て現在に至った。この間時代の変遷、寺門の盛衰、天変地異と幾多の曲折を経て、二十三世慈航性海大和尚の代に至って化風大いに揚がり法燈盛んに輝き、檀信徒の帰依篤く、本堂新築の大業を発願し、僧俗合力昭和29年竣工をみるに至った。大和尚を尊崇し当寺再中興の祖と呼んでいる。
時移りて二十四世重興寂室憲光大和尚檀信徒を薫化し、多年懸案たる開祖堂山門新築事業、加えて境内整備事業等について先師の遺志を継承し、檀信徒の浄財と協和篤信を以って昭和54年着手するも、昭和56年春俄かに病を発し同年10月23日事業半ばにして遷化さる。以来法嗣石田治光師建設委員辛粒々愛山護法の道心と佛天の加護、更に東京豪徳寺住職北越泰正師はじめ有縁の協力を得、昭和58年10月23日落慶をみるに至った。
(石碑記載文章より)


武田の高札
光源院は、万松山と号し、甲州(山梨県)山梨郡落合の永昌院(曹洞宗)の末寺で、永昌院五世の敬翁性遵(元亀2年1571年入寂)が開山した。また、小沢口(両神村)に移住した武田家重臣逸見義綱(逸見氏は武田氏の一族と伝えられている)が開基した寺と伝えられている。
「武田の高札」とよばれるこの古文書は、武田の軍勢が、「高源院(光源院)において、乱妨・狼藉を禁じ、これに背いた者を罪科に処する」ということを記した掟書きである。永禄13(1570)年2月28日の日付と、武田家重臣山県三郎兵衛の名が記され、二重円の中に龍を描く武田家の朱印が押されている。
戦国時代の三山郷(現在の小鹿野町河原沢・三山・飯田地区と考えられる)は、甲斐の武田信玄と小田原の北条氏政の両勢力の接点となり、幾度か戦いが行われた。この高札は、武田氏が光源院を陣営として、寄居鉢形城の出城であった日尾城を攻撃した時、光源院を保護するために発せられたものと伝えられている。
戦国時代の当地域の状況を知る上で貴重な資料である。
(看板資料より)

武田の高札

 
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