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山梨県山梨市

窪八幡神社

2013年09月21日

窪八幡神社鳥居(重要文化財)

鳥居は、神社境内から東方に離れた参道にあって、神門を望む位置に建てられています。建立年代は「王代記」の記載から天文9(1540)年と考えられています。木造鳥居としては現存する日本最古のものです。
(看板資料より)

窪八幡神社鳥居
神社本記の記録によると、天文4(1535)年、武田信虎によって42才の厄払祈願のため鳥居と石橋が建立されたとあり、現在の鳥居はこの時に再建されたものと考えられる。
親柱の前後に面取り角柱が立ち、親柱と控柱間は上下2本の笠木つき貫を通して連結され、いわゆる両部鳥居または四脚鳥居と呼ぶ形式となる。
木材はそのほとんどに白の混んだ杉が使われており、親柱を連結する貫だけは節の多い松が使用されている。
高さは約7.41メートル、横幅が広く約5.91メートルである。親柱は太い円柱で直径約55センチメートルあり、自然石礎石上に内側に転び(傾斜)をつけて立てる。柱頂には台輪がつき、島木および笠木を受ける。島木、笠木には軽快な心反りがあり、笠木上には屋根板を張り銅板葺とした屋根をかける。島木下方の貫は柱を貫通し、両端の鼻は長く外方に突き出している。島木と貫の中央部には額束を立て、額束正面に「大井俣神社」と文字金箔押しの木製神額が掲げられている。
この鳥居は、均整のよくとれた形のすぐれている木造鳥居であり、一般的には立替の頻度が多い建造物のため、造立年代が室町時代まで遡る例は珍しく、現存する木造鳥居のなかで最も古い遺構として極めて価値が高い。
(看板資料より)


窪八幡神社神門附石橋(重要文化財)

神門は、境内の正面入口に東面して建ち、総門とも呼ばれます。神社本記によると、永正8(1511)年、「王代記」によると天文11(1542)年の建立とされ、その後明和6(1769)年に修理されていることが箱棟の墨書によって明らかになっています。
四脚門切妻造、檜皮葺、神門の前の堀には軽く反った石橋がかかっています。
(看板資料より)

窪八幡神社
窪八幡神社は、『大井俣神社本記』(承応2[1653]年、当社蔵)によると、清和天皇の勅願によって貞観元(859)年に九州宇佐八幡宮が勧請されたのが始まりと伝えられています。境内には、室町後期の神社建築が集中するほか、同時期の境内古絵図や鰐口・木造狛犬・三十六歌仙図など貴重な文化財が多く残されています。これは永正13(1516)年及び大永元(1521)年の駿河勢侵攻による建物の焼失と、信虎・晴信(信玄)による戦国大名武田家の勢力拡大に伴う外護が要因となって、この時期に大規模な造営が行われたことによるものとみられています。
周辺には戦国期の史料として名高い『王代記』が書かれた別当上之坊(八幡山普賢寺)跡地をはじめ県指定文化財の「木造阿弥陀三尊像」が安置される神宮寺、坊や社家といった神仏習合遺跡が残されています。
(看板資料より)


窪八幡神社拝殿附鰐口(重要文化財)

本殿に対応して間口11間の長大な外観で建っています。神社本記には天文22(1553)年に武田晴信(信玄)によって、信州村上義清を攻略の際に祈願成就のため造替が行われたと記され、小屋束からは「弘治3(1557)年」の墨書が発見されています。
左右が対称ではない点、床が低い点などは神社拝殿としては特異であり、庁屋(現在でいう社務所)として使用されていたと考えられます。鰐口表面には天文22年、裏面には弘治3年の刻銘があります。桁行11間、梁間3間、一重切妻造、檜皮葺。
(看板資料より)


窪八幡神社本殿附旧壁板(重要文化財)

中殿に誉田別尊(応神天皇)、北殿に足仲彦尊(仲哀天皇)、南殿に気長足姫尊(神功皇后)がまつられています。昭和26(1951)年の解体修理で永正16(1519)年の墨書が発見され、この頃に建立されたことが明らかとなりました。形式は十一間社流造・檜皮葺で三間社流造の三社が1間をおき、それぞれ横に連結して11間の形となる、我が国に現存する最大の流造本殿です。神社本記には弘治3(1557)年に武田晴信(信玄)が信州出陣の際配下に命じて金箔を再興させたと記されています。各社正面の6面の板壁には壁画が描かれ、正面の大部分に金箔装飾が施されています。
(看板資料より)


窪八幡神社摂社若宮八幡神社拝殿(重要文化財)

建立年代は、神社本記と窪八幡別当上之坊で書き継がれた年代記『王代記』とがともに天文5(1536)年建立としています。
南に隣接する本社拝殿より20年ほど早く建造され、本社拝殿が切妻造であるのに対して、この拝殿は入母屋造で、桁行4間、梁間3間、屋根は檜皮葺です。装飾的な部分が少ない簡素な建物で落ち着いた外観をあらわしています。
(看板資料より)


窪八幡神社摂社若宮八幡神社本殿(重要文化財)

祭神大鷦鷯尊(仁徳天皇)は本社祭神と縁故が深い神なので摂社といわれています。建立年代は神社本記によると応永7(1400)年と記されていますが、建築様式から15世紀後期とみられています。
三間社流造、檜皮葺で、軸部の内部まで仕上げられた円柱、幣軸構えの形式、脇障子を省略した縁、極めて深く折れた破風の反りなど、多くの古式な点が認められます。数多い窪八幡神社社殿のなかでも最古の建築物です。
(看板資料より)


窪八幡神社末社高良神社本殿(重要文化財)

本社拝殿の南側に建ち、高良明神をまつっています。神社本記には明応9(1500)年再建と記されています。一間社隅木入春日造、檜皮葺。室町時代後期の手法をよく示しています。
(看板資料より)


窪八幡神社末社武内大神本殿(重要文化財)

本殿の南側に並んで建ち、武内宿祢をまつっています。高良神社本殿と同じく明応9(1500)年に再建されたとされています。質素な素木造で9段の木階を付け、回縁には刎高欄をめぐらせています。この社殿の絵様彫刻は優美な曲線を示し、木割は雄大でよく整い小規模の本殿建築の代表作と言われています。
(看板資料より)


窪八幡神社如法経塔(県指定有形文化財)

如法経塔とは、「写経に羽毛を用いず草を筆とし石を墨として一字ごとに礼拝書社するいわゆる如法業によった経文を埋納して建てた塔」のことです。
「王代記」等の記載から享禄5(1532)年の建立とされています。この塔は安山岩製で、現高1.40m、基礎・塔身・笠などの示す比率はよく均衡が保たれ、椎型を設けた軒の反り方や屋根のカーブと相まって、室町期の特色を現わし、全国的にも数少ない遺構として貴重です。
(看板資料より)


窪八幡神社鐘楼(県指定有形文化財)

本社拝殿の北東に位置し、「王代記」及び棟札の写しによって天文22年に武田晴信を大檀那として建立されたことが判明しています。神仏習合の姿を残す貴重な建物です。
(看板資料より)

窪八幡神社鐘楼
建立年代は不祥であるが、神社に現存する天文22(1553)年頃の「境内古図」に現在の位置に記されており、それ以前の建造であることを明らかにしている。形式・技法から見て、明応9(1501)年再建の武内社と高良社に類似していることから同年代の建造と推定される。
この鐘楼は、腐朽がその極に達し、倒壊寸前にあったが、県有形文化財に指定され、昭和56年解体復元工事が竣工した。中世以来、明治維新までの神仏混淆時代の名ごりを今に伝える唯一の建築である。現在、重要文化財の鐘楼は、全国で三十三棟を数えるが、屋根が同形式のものは一棟あるのみである。
(看板資料より)


窪八幡神社末社比梼O神本殿(重要文化財)

本社本殿等が配された区域から一段下がった境内前部の池の中島に建ち、田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命の三神をまつっています。明治時代初期まで「弁財天」と呼ばれ、現在の社殿はは寛永2(1625)年徳川忠長が再建したと伝えられています。一間社流造、銅板葺(もとは檜皮葺)。白・朱・黒と各部を塗り分け、金箔を施した総漆塗りで、極めて華麗な本殿であり、江戸時代初期の様式をよく示しています。
(看板資料より)

 


木造狛犬(県指定有形文化財)
各台座裏面には、天文17(1548)年権大僧都の法印良舜が本願となって源晴信(武田信玄)の武運長久と国土豊饒・社檀安穏を願って奉納されたことが記されています。その後永禄8(1565)年に彩色し、同11(1568)年玉眼を入れています。檜材の寄木造で、彫刻・彩色ともに薩州の林可の作です。
(看板資料より)

紙本墨画淡彩 窪八幡神社境内古絵図(県指定有形文化財)
この神社境内の古図は、天文22(1553)年に描かれたもので、境内清掃分担の範囲を示しています。隋神門は舞台、杉本観音堂など現在は消滅している建造物のほか、普賢堂・官寺薬師など仏教建造物も多く記載されています。
室町後期の境内構成や神仏習合の姿を残す貴重な資料です。
(看板資料より)

ブッポウソウ等繁殖地窪八幡神社(市指定有形文化財)
ブッポウソウは、東南アジアから夏鳥として日本を訪れ、大きな樹木のある森林や神社や寺院などに強い縄張り意識を持って生息します。身体は金属光沢のある美しい青緑色で翼には白斑があり、くちばしと足は赤く、体長はハトより少し小型です。主に昆虫を餌とし、飛びながら大型昆虫を捕食します。声はゲーッ、ゲゲゲとよく響きます。昭和49年5月8日、窪八幡神社境内で確認され、続いて毎年営巣繁殖が見られました。
(看板資料より)

板絵著色三十六歌仙図(市指定有形文化財)
有名な歌人の絵姿に和歌を添え書きすることは、鎌倉期頃から、歌道の発達と肖像画の進歩とが結合してできたものと考えられ、主に36人の歌仙とよばれる歌の名人が描かれました。
窪八幡神社には新旧2組の歌仙額があり、「甲斐国誌」によると、旧期のものは天文14(1545)年に武田信玄が直筆して奉納したもので、画工は権少僧都宥純とされています。現在は14枚が残っているのみですが、古い成立であり貴重です。新期のものは元禄7年成立の画は生駒等寿で、保存状態もよく完存する秀作として貴重です。
(看板資料より)

 



2003年08月30日

 

窪八幡神社本殿
当社は、貞観元(859)年清和天皇の勅願により、豊前国(大分県)宇佐八幡宮より勧請、東国鎮護として笛吹川の中島、大井俣の地に建立。後に現在の窪の地に還座した。
甲斐源氏一門、とくに国主武田氏の崇敬篤く、代々社殿造営を行っている。現本殿は、応永17(1410)年武田信満が再建。享禄4(1531)年武田信虎が修復、弘治3(1557)年武田晴信が川中島合戦の戦勝祈願成就によって、御扉と金箔による豪華な壁面を奉納している。昭和26年、解体復元工事が竣工した。
(看板資料より)

窪八幡神社拝殿付鰐口
天文3(1534)年武田信虎によって造立。現拝殿は、弘治3(1557)年武田晴信により、本殿の御扉と共に再建された。鰐口は、表に天文22年、裏に弘治3年の銘あり。昭和28年、解体復元工事が竣工した。
(看板資料より)

摂社、若宮八幡神社本殿・拝殿
社記によれば、貞観元年、御正殿と共に勧請建立された。寛治7年、新羅三郎義光により再建。応永7年、武田信昌が修造したという。拝殿は、社記「天文5(1536)年に新たに修造す」とあり、形式手法より現建物と思われる。昭和28年、解体復元工事が竣工した。
(看板資料より)


鐘楼

 

建立年代は不祥であるが、神社に現存する天文22(1553)年頃の「境内古図」に現在の位置に記されており、それ以前の建造であることを明らかにしている。形式・技法から見て、明応9(1501)年再建の武内社と高良社に類似していることから同年代の建造と推定される。
この鐘楼は、腐朽がその極に達し、倒壊寸前にあったが、県有形文化財に指定され、昭和56年解体復元工事が竣工した。中世以来、明治維新までの神仏混淆時代の名ごりを今に伝える唯一の建築である。現在、重要文化財の鐘楼は、全国で三十三棟を数えるが、屋根が同形式のものは一棟あるのみである。
(看板資料より)


窪八幡神社如法経塔

 

如法経とは、「写経に羽毛を用いず草を筆とし石を墨として一字ごとに礼拝書写するいわゆる如法行によった経文を埋納して建てた塔」のことである。
享禄5(1532)年のこの塔は安山岩製で、現高1.40メートル、基礎・塔身・笠などの示す比率はよく均衡が保たれ、?型を設けた軒の反りが屋根の反り方と相まって、室町期の特色を現わし、全国的にも例の少ない大切な遺構である。
(看板資料より)

 

 
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