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広島市

熊谷氏菩提所観音寺跡


2009年08月12日

熊谷氏と三入荘
承久の変(1221年)で勝利をおさめた鎌倉幕府は戦功のあった武将たちを西国各地の守護・地頭に任じた。武蔵国熊谷郷(埼玉県熊谷市)の熊谷氏は安芸国三入荘の地頭に任ぜられると間もなくこの地に移り、伊勢が坪に城を築いた。その後室町期に入ってから戦略的により優れた高松山に本拠を進め、麓に屋敷を構えた。またこの屋敷を根之谷川を挟んで向かい合う位置に一族の菩提所・正法山観音寺を営んだ。
(看板資料より)

熊谷元直の腕を洗い清めたと伝わる井戸

菩提所観音寺跡
熊谷氏の一族の菩提所観音寺は、かつては大内義隆が宿泊したこともある大寺であったが、天正19(1591)年熊谷氏が広島城下に移ってからは次第にさびれ、今では巨石で築いた100mに及ぶ石垣と、熊谷氏の定紋(穂矢)を刻んだ古い須弥檀を安置した小さな観音堂に、当時の面影をわずかにとどめている。観音堂南側の墓所には40基余りの古い五輪塔、宝篋印塔がある。熊谷氏代々の墓と伝えているが、形が崩れてはっきりしない。しかし慶長5(1600)年熊谷氏の主流が毛利氏に従って萩に移ってからも、度々家臣を墓参させていたという。また境内の井戸は、有田合戦で討死した熊谷元直の腕を彼の妻が洗い清めたという言い伝えがある。
(看板資料より)

熊谷氏菩提墓所

 
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