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群馬県甘楽町

国峰城

2004年04月03日

国峰城は中世における大城郭である。他に類例を見ない特異な構造を示し、山城部・丘城部、平城部が南北2.5km、東西2kmの間に展開している。山城部は標高434mの城山山頂を本郭とし、西側の尾根上を掘切って数個の郭を構え東下20mに第2郭があり、山腹に2段の腰郭をめぐらす。顕著な竪堀が斜面を下り、東端から放射する2筋は山裾で、長さ130mの横堀りで連結され御殿平への通路となっている。
丘城部の御殿平は、居住区で三段の区画からなり、城の主要な部分でここに住み諸施設もあったが、それは戦国中期以降であり、初め小幡氏は竹の内(館の内)の館を中心とする地域に住んでいたであろうと推定される。
平城部は中ツ沢、国峰の谷と恩田の2つの部分から成り、恩田との間を長さ200mにわたる堀割が断ち、更にその北には長さ330m幅8mの遠堀(農地改良により一部を残すのみ)があり、、両端の丘上には砦があったと推定され、国峰城の最外防御線を構成している。
小幡氏は武蔵児玉党の一員で、西上野の主領としてその勢力を伸ばし、東は多胡緑野(多野郡)、西は西牧南牧、南は神無川を越えて武蔵の国境、北は碓氷川を境とし、磯部付近の地域すべてを領し国峰城の御殿より眺められる地域がすべてその支配下だったと云われ、関東管領山の内上杉氏の重臣として活躍したが、上杉氏亡命後、武田信玄に通じ、長野業政(箕輪城主)は小幡重定を逐って、一族小幡景定を城主とした。永禄4(1561)年信玄は、国峰城を奪って信実(重定改)を復住させ、上州攻略の拠点とした。以降信実は赤備え騎馬軍団を率い、武田軍団の中核となって活躍した。信玄の病後、信実は信真と改め、天正3(1575)年長篠の戦には設楽原の決戦に中央隊として奮戦した。天正10(1582)年、武田氏滅亡後、織田の滝川一益配下となり信真は信貞と改め、更に北条氏に属して信定と改める。天正18(590)年小田原の役に信定は出陣し籠城。留守の国峰城は、子小幡信秀が守ったが、前田利家率いる北陸道軍分遣隊藤田信吉に落とされ城は廃された。
(看板資料より)


御殿平

国峰城への入口のところには、「国峰城跡の観光車輛は、途中より悪路につき、注意してください」との看板があります。基本的に、城山へ!の看板の案内に従って行けば御殿平(上の写真)に行くことができますが、入口の看板の通り途中から悪路になります。特に道路の幅が狭く数回切り返さないと曲がりきれない所もありました。


御殿平に車をとめて、そこから徒歩で山頂に向いました。途中から上の写真のように登山道になりますが、道はきれいに整備されているので足場は良く、そのまま山頂まで登ることができます。

 
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