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千葉県いすみ市

万木城


2009年09月20日

万木城は中世の城郭で現在までその遺構をよく留めている。この城の立地は断層崖の急斜面を三方にもった台地によっているが、この丘陵の三方は夷隅川の曲流に囲まれていて外堀の役目を果たし、守るには要害の地ということができる。この中世城郭は戦国時代の末期、すなわち16世紀の中頃には完備した城郭であったことは永禄8(1565)年の行元寺文書の存在から傍証できる。この城郭が比較的単純であるというのは土居の配置が単純で、ただ周囲の一部にめぐらされていたこと、空掘の築造がなかったと思われることなどであるが、これは地盤の基底が硬い泥岩質で、急崖をめぐらしている崖端城ともいえる要害が然らしめたものであろう。万木城については不明な点が多く詳らかになし得ない。
史料によれば土岐頼春の頃天正末年には小田原北条氏に属し、小田原落城により、北条氏と運命を共にしたことは間違いない。城址には当時のものと思われる井戸や落城のときに焼けた米が炭になって、当時米庫であったと思われる南側の台地の土中にまで散在している。
(看板資料より)

万喜城(万木城とも)は上総土岐氏の居城として知られているが、同氏は関係資料も少なく、いまだ謎の部分が多い。伝承によれば、土岐氏は応永19(1412)年に土岐頼元が摂津国富山城よりこの地へ移り、その後為頼・頼春と3代続いたとされている。しかし、近年土岐義成と比定される人物の発給文書(光福寺文書、西門院文書)が数点確認され、しかも同氏が上総土岐氏の当主と考えられることから、歴代の当主については再検討の余地があることが明らかとなった。ところで、当城は初め上総武田氏の居城であり、後に土岐氏が椎木(岬町)より入部したという伝承もある。上総国は南北朝以降は上杉氏の支配下にあった。その後、鎌倉公方の意をうけた近臣(上総武田氏や里見氏)が15世紀中頃に入部したと考えられるが、土岐氏についても同様のことが推定される。いずれにしても土岐氏の動向が明確になるのは16世紀後半である。同氏は安房の里見氏と婚姻関係を結ぶなど、友好関係を保ちながら夷隅地域東部(夷隅町・岬町・大原町)に勢力を広げていったようであるが、里見氏が第二次国府台合戦に敗れると、しだいに、当時上総まで勢力を伸ばしつつあった小田原北条氏配下となった。その結果、万喜城は里見氏やその配下である正木氏や長南武田氏によってたびたび攻められるが、決して落城することは無かったという。しかし、難攻不落を誇った万喜城も、天正18(1590)年の豊臣秀吉の小田原城攻めによる北条氏滅亡と運命を共にした。その後、徳川家康が関東に入部すると、その重臣である本多忠勝がいったん入城するが、忠勝の大多喜城入城に伴い万喜城は廃城になったと考えられる。「関東八州諸城覚書」には土岐氏の城として、万喜城・へひうかの城(所在地不明)・鶴ガ城(岬町)の三城が記され、その動員兵力を1000騎としている。他の勢力は、千葉氏、里見氏がそれぞれ3000騎、長南武田が1000騎等であり、相対的な軍事力が推測できる。万木城の城下にはかつて、多くの寺院があったが、現存するのは四か寺である。城の南西裾にある海雄寺は土岐氏の菩提寺で、土岐氏3代(頼元・為頼・頼春)の位牌と木像、そして釈迦涅槃像が安置されている。西麓にある上行寺の過去帳には武田氏関係の記載があり、同氏の菩提寺と伝えられる。東側にある桂林寺は土岐氏内室ゆかりの寺といわれている。同じく東側にある三光寺は北辰妙見大菩薩を祀っている。
(図説 房総の城郭より)

 

 
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