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群馬県高崎市

箕輪城

2014年08月03日

歴史
箕輪城は、明応、永正年間(1492〜1521)に長野尚業(業尚)が築城し、子憲業、孫業政により強化された。長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にしてお互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領山の内上杉家の再興を計って最後まで奮戦した武将である。特に長野信濃守業政は、弘治年間(1555〜8)から数回に及ぶ信玄の激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦いぬいたすぐれた戦術と領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。
業政の死後、子業盛(氏業)は父の遺志を守り城兵一体となってよく戦ったが頼む諸城は次々と武田の手に落ち、永禄9(1566)年9月29日、さしもの名城箕輪城も武田勢の総攻撃により、ついに落城するに至った。城主業盛は、
  春風にうめも桜も散りはてて名のみぞ残る箕輪の山里
という辞世を残し一族主従自刃し、城を枕に悲壮な最期を遂げた。長野氏の在城は60余年である。武田氏の時代は天正10(1582)年、その滅亡によって終り、織田信長の時代には滝川一益が一時在城したが、信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を大改修した。
天正18(1590)年、北条氏滅亡後、徳川家康は重臣井伊直政を12万石でここに封して関東西北の固めとし、城下町も整備した。その後慶長3(1598)年直政が城を高崎に移し、箕輪城は約1世紀にわたる歴史を閉じた。
構造
箕輪城跡の標高は270メートル。面積は47ヘクタールに及ぶ丘城(一部平城)である。西は榛名白川の断崖に臨み、南は椿名沼。東と北とは水堀を回らして守りを固めている。城は深さ十数メートルに及ぶ大堀切で南北に二分され、更に西北から東南の中心線に沿って深く広い空掘に隔てられた多くの郭が配置されている。
御前曲輪で発見された井戸をはじめとする多くの井戸などによって城の用水は完備していた。殊に法峯寺郭は江戸時代の兵書「手鑑」にも引用されているほどにすぐれた用水である。六ヶ所の「馬出し」や、櫓あとの石垣をはじめ各所に半ば埋もれた石垣も残されている。
(看板資料より)

箕輪城跡遊歩道案内図


本丸

本丸は御前曲輪とともに城の中心部であり、南北約100メートル、東西約70メートル、東側には高い土手を築いて城内が敵に見えないようにしてある。この土手が御前曲輪の東側まで続いていることにより、御前曲輪も本丸の一部であったと考えることができよう。本丸と御前曲輪の間の空堀は東部が浅く西部が深く、西の空堀に降りる通路となっていた。空堀底は初期にはすべて交通壕であったが、後に掘り下げられてそのはたらきを失ったらしい。南の本丸の虎口(出入口)には前に「曲尺馬出し」がつき、本丸南部が突き出して虎口前を側面から防ぐようになっている。
(看板資料より)


本丸馬出し

東から南に鍵形の土居のあった馬出しで、土居の北側から搦手へ、南側からは二の丸へ出撃する。本丸の南側の突き出している部分は、この馬出しの内外を側面から守るようにできている。
(看板資料より)


御前曲輪

御前曲輪は本丸の詰めにあり、城の精神的な中心であった。西南の角に物見・戦闘指揮のための櫓があり、その下は石垣で固められている。天守閣はなかった。落城の際、長野業盛以下自刃した持仏堂があったと伝えられている。井戸は昭和2年に発見されたものである。
(看板資料より)

箕輪城将士慰霊碑

この郭は本質的には本丸の一部であって、落城の際、城主はここの持佛堂に入って自刃し、一族郎党みなあとを追ったと伝えられているように、箕輪城の精神的中心であった。いわば天守郭が本丸の同一平面に設けられたとも考えられる所である。昭和2年に発見された井戸からは多数の五輪塔などの墓石が発見された。西南隅には櫓があったと思われ、壕内に石垣が残っている。
(看板資料より)


御前曲輪井戸

昭和2(1927)年8月15日、豪雨のため一部地盤が沈下したのがきっかけで古井戸が確認されました。
深さは20mで、底から長野氏累代の墓石が多数掘り出されました。


御前曲輪北堀

ここで堀は5つに分かれていた。稲荷曲輪、玉木山、通仲曲輪の3つの郭が、それぞれくちばし状にここに集まっている。3つの郭の間を進むと、新曲輪、丸馬出しに行くことができる。
(看板資料より)


搦手口

搦手口は、城の大手口(追手)に対し、裏口に当たる。ここにも馬出しがあった。
長野氏時代から北条氏時代までは、当時の情勢から考え、ここが大手口であって、城の南方に城下町が構成された井伊氏時代に大手口が南面に設けられから、ここが搦手口となったといわれている。


新曲輪


本丸堀の橋台

本丸から蔵屋敷に出る橋の脚を立てた台で堀はここで狭くなっている。南側に石垣が昔のまま残っている。
(看板資料より)


蔵屋敷

蔵屋敷は備蓄穀物を保管する建物のあった場所だと考えられますが、一説によると、いわゆる「辻馬出」の機能を併せ持ち、ここから三の丸、通仲曲輪、鍛冶曲輪北方へ出撃するための拠点であったと推定されています。


三の丸門跡と石垣

城中の石垣で、比較的良く残っているのはここである。
三の丸は二の丸の外にある郭である。入口の三の丸門には西側の石垣の上を渡した櫓があり、その下が通路であった。


二の丸

二の丸は縦横各80メートル程の郭で、本丸が持久防御のための郭であるのに対し、これは出撃の拠点である。東は搦手口に、西は白川口、大手方面へ、南は大堀切土橋から木俣方面へと四方へ出撃できるようになっている。
(看板資料より)


三の丸


大堀切

この大堀切によって城は南北に二つに区切られ中央にある土橋一つで連絡されている。このように一方を失っても片方だけで戦闘を続けられる仕組みのものを「一城別郭の城」という。土橋の南には見事な郭馬出しが構えられ出撃の気勢を見せている。
(看板資料より)


郭馬出

郭馬出しは、50メートル×30メートル程の郭で、回りに土手を設け外部から見えない囲いの中に兵を結集し、土手の両側から一挙に打って出るところである。このような大形の馬出しを「郭馬出」という。高崎城の梅木郭は、この郭馬出しを手本としたものであろう。
(看板資料より)


木俣

通路が二俣、三俣のように五つの方向に分かれるのを木俣という。ここはその形をしているので木俣とよばれる。
(看板資料より)


虎韜門

虎韜とは中国の昔の兵書「六韜三略」の虎韜(虎の巻)である。この門をこう名づけたのは井伊直政であろう。ここは大堀切の西下を守る要点である。古図によればこの南に馬出しがあった。


白川口埋門

虎韜門から白川河原に出る秘密の通路で、西部城外への道はここ唯一である。虎口(出入口)の両側に石垣を積み、上に木や石を渡して土手をその上に盛り、トンネル式に作った門を埋門という。
室田の鷹留城は箕輪城と別城一郭という相互援助の城であった。この埋門は少数の兵が鷹留城その他との連絡に利用したものであろう。
埋門跡の残っているのは県下にこれ一ヶ所である。

 



2004年04月03日

歴史
箕輪城は、明応、永正年間(1492〜1521)に長野尚業(業尚)が築城し、子憲業、孫業政により強化された。長野氏は、武田信玄、北条氏康、上杉謙信の三雄が上野国を舞台にしてお互いに勢力を争った戦国の世に、あくまでも関東管領山の内上杉家の再興を計って最後まで奮戦した武将である。特に長野信濃守業政は、弘治年間(1555〜8)から数回に及ぶ信玄の激しい攻撃を受けながら少しも譲らず戦いぬいたすぐれた戦術と領民のために尽くした善政により、名城主として長く語り継がれている。
業政の死後、子業盛(氏業)は父の遺志を守り城兵一体となってよく戦ったが頼む諸城は次々と武田の手に落ち、永禄9(1566)年9月29日、さしもの名城箕輪城も武田勢の総攻撃により、ついに落城するに至った。城主業盛は、
  春風にうめも桜も散りはてて名のみぞ残る箕輪の山里
という辞世を残し一族主従自刃し、城を枕に悲壮な最期を遂げた。長野氏の在城は60余年である。武田氏の時代は天正10(1582)年、その滅亡によって終り、織田信長の時代には滝川一益が一時在城したが、信長の死後は北条氏邦が城主となり、城を大改修した。
天正18(1590)年、北条氏滅亡後、徳川家康は重臣井伊直政を12万石でここに封して関東西北の固めとし、城下町も整備した。その後慶長3(1598)年直政が城を高崎に移し、箕輪城は約1世紀にわたる歴史を閉じた。
構造
箕輪城跡の標高は270メートル。面積は47ヘクタールに及ぶ丘城(一部平城)である。西は榛名白川の断崖に臨み、南は椿名沼。東と北とは水堀を回らして守りを固めている。城は深さ十数メートルに及ぶ大堀切で南北に二分され、更に西北から東南の中心線に沿って深く広い空掘に隔てられた多くの郭が配置されている。
御前曲輪で発見された井戸をはじめとする多くの井戸などによって城の用水は完備していた。殊に法峯寺郭は江戸時代の兵書「手鑑」にも引用されているほどにすぐれた用水である。六ヶ所の「馬出し」や、櫓あとの石垣をはじめ各所に半ば埋もれた石垣も残されている。
(看板資料より)

箕輪城跡遊歩道案内図


虎韜門

虎韜とは中国の昔の兵書「六韜三略」の虎韜(虎の巻)である。この門をこう名づけたのは井伊直政であろう。ここは大堀切の西下を守る要点である。古図によればこの南に馬出しがあった。


鍛冶曲輪の石垣

鍛冶場のあった所で中世の大きな城にはよく見られ、ここで武具などを作製、修理した。このような石垣は城内各所に見られる。
(看板資料より)


本丸堀の橋台

本丸から蔵屋敷に出る橋の脚を立てた台で堀はここで狭くなっている。南側に石垣が昔のまま残っている。
(看板資料より)


御前曲輪北堀

ここで堀は5つに分かれていた。稲荷曲輪、玉木山、通仲曲輪の3つの郭が、それぞれくちばし状にここに集まっている。3つの郭の間を進むと、新曲輪、丸馬出しに行くことができる。
(看板資料より)


御前曲輪

御前曲輪は本丸の詰めにあり、城の精神的な中心であった。西南の角に物見・戦闘指揮のための櫓があり、その下は石垣で固められている。天守閣はなかった。落城の際、長野業盛以下自刃した持仏堂があったと伝えられている。井戸は昭和2年に発見されたものである。
(看板資料より)

この郭は本質的には本丸の一部であって、落城の際、城主はここの持佛堂に入って自刃し、一族郎党みなあとを追ったと伝えられているように、箕輪城の精神的中心であった。いわば天守郭が本丸の同一平面に設けられたとも考えられる所である。昭和2年に発見された井戸からは多数の五輪塔などの墓石が発見された。西南隅には櫓があったと思われ、壕内に石垣が残っている。
(看板資料より)


本丸は御前曲輪とともに城の中心部であり、南北約100メートル、東西約70メートル、東側には高い土手を築いて城内が敵に見えないようにしてある。この土手が御前曲輪の東側まで続いていることにより、御前曲輪も本丸の一部であったと考えることができよう。本丸と御前曲輪の間の空堀は東部が浅く西部が深く、西の空堀に降りる通路となっていた。空堀底は初期にはすべて交通壕であったが、後に掘り下げられてそのはたらきを失ったらしい。南の本丸の虎口(出入口)には前に「曲尺馬出し」がつき、本丸南部が突き出して虎口前を側面から防ぐようになっている。
(看板資料より)


この石垣は、土塁の土が崩れないように作られたものです。三段ほどに積まれ堀にそって長く続いているようです。石垣の上は「犬走り」と呼ばれる通路になっています。城の改築のときに作られたものでしょうが最近の発掘でみつかりました。
(看板資料より)


本丸門馬出し

東から南に鍵形の土居のあった馬出しで、土居の北側から搦手へ、南側からは二の丸へ出撃する。本丸の南側の突き出している部分は、この馬出しの内外を側面から守るようにできている。
(看板資料より)


二の丸は縦横各80メートル程の郭で、本丸が持久防御のための郭であるのに対し、これは出撃の拠点である。東は搦手口に、西は白川口、大手方面へ、南は大堀切土橋から木俣方面へと四方へ出撃できるようになっている。
(看板資料より)


大堀切と土橋

この大堀切によって城は南北に二つに区切られ中央にある土橋一つで連絡されている。このように一方を失っても片方だけで戦闘を続けられる仕組みのものを「一城別郭の城」という。土橋の南には見事な郭馬出しが構えられ出撃の気勢を見せている。
(看板資料より)


郭馬出

郭馬出しは、50メートル×30メートル程の郭で、回りに土手を設け外部から見えない囲いの中に兵を結集し、土手の両側から一挙に打って出るところである。このような大形の馬出しを「郭馬出」という。高崎城の梅木郭は、この郭馬出しを手本としたものであろう。
(看板資料より)


木俣

通路が二俣、三俣のように五つの方向に分かれるのを木俣という。ここはその形をしているので木俣とよばれる。
(看板資料より)

 

 
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