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静岡県磐田市

向笠城

2010年01月10日

詳細については未詳ですが、戦国時代に今川氏、次いで武田氏に属した向笠氏の居城と伝えられています。戦略的な要地にあり、徳川方に対抗する武田方の一支城として機能したと考えられています。近辺にも「城屋敷」、「陣垣戸」、「東門」などの城に関連する地名が残っています。
(看板資料より)

向笠氏代々の居城であるが、創築年代は不明。戦国時代向笠氏は今川氏ついで武田氏に属した。天正元(1573)年3月、徳川の軍勢に攻囲され『武徳編年集成』は「可久輪の城をば石川日向守(家成)、久野三郎左衛門宗能宵より是を攻る処、暁天に及んで城陥り城将を斬獲しければ、六笠一宮の両城は、味方の旌旗をだも見ずして逃奔り、数砦忽陥り畢ぬ」と落城の様子を記している。
また、『煕庵遺書』には「此地は向笠五郎、向笠伯耆守住す、甲斐軍に属し、其孫向笠平兵衛、井伊掃部守に仕ふ」、「天正元年3月平岩親吉をして天方城を攻めしむ、守将久野弾正甲斐に奔る、石川家成、久能宗能をして可久輪を攻めしむ、敵出奔す、酒井忠次をして鳳来寺城六笠一之宮の両城を抜かしむ、伯耆守六笠に在り、武藤刑部一之宮にあり」とある。
(日本城郭大系より)

朝一番で向ったのが向笠城です。地図で大体の場所をプロットしておいてカーナビにセットして目的地に向いました。しかし現場周辺と思われる所は工事中で中に入ることができませんでした。麓にある鷲渓山新豊院で話を聞こうと思って行ってみましたがまだ早朝でしたので遠慮して戻ってきました。その後老婦人に話を聞くことができ、向笠の城跡はお寺の裏山ではなくてお寺の向かい側の橋の土手の下辺りであるとのことでしたのでそちらにも行ってみましたが何もありませんでした。その後向笠地区の「文化財の道しるべ」という看板を発見して場所も確認することができました。それによると新豊院の先を左に曲って最初のカーブの崖の上あたりになるようでした。思い切って坂を登り切り、左に曲ったあたりで犬の散歩をしていたご婦人に聞いたところ、向笠というのはこの一帯の地名で、城は多分坂の下の方であるとのことでした。しかし下には行かずに茶畑の中を進んで行ってみると突き当たりのところで空堀跡のようなものを見つけることができましたがこれが向笠城の遺構であるのかどうかは分かりませんでした。

 

 
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