←前のページ トップページ↑ 次のページ→

長野県小県郡長和町

長窪

2003年06月29日

長窪城跡について
この城跡は、別に深山城、または霞の尾城ともいい、室町時代中期の応永年間(1400)大井氏、または芦田氏(依田氏)によって築かれたといわれている。その後、佐久岩村田大井庄、大井氏の親類衆が永くこの地を支配し長窪氏を名乗り長窪の発展に尽くした。
天文12(1544)年9月、城主であった大井貞隆は武田晴信(信玄)の軍に攻められこれに降り、以降長窪城は武田氏が北信濃に進出するための重要な拠点となった。
天正10(1582)年武田氏が滅亡するとともに小県一円は真田昌幸の領地となり天正11(1583)年、昌幸が上田城を築いて配下の武士を上田城下に集めたことなどにより長窪城は廃城となった。
当城と武田氏とのかかわりあいの主なものは次のとおりである。
天文12(1544)年9月
武田晴信(信玄)により当城主大井貞隆、捕らわれる。
当城はこの後信玄による東・北信濃攻めの前進基地となる。
天文17(1549)年9月
信玄、長窪城に着陣のあと、坂城葛尾城主村上義清を攻め、上田原合戦となる。
天文19(1550)年2月
信玄当城に着陣し、重臣を2回にわたり、村上方の守る戸石城の偵察に出す。このあと戸石合戦となる。
天文22(1553)年8月
信玄当城に着陣のあと、和田城、高鳥屋城、塩田城等を攻め落とす。
天正10(1582)年3月
武田氏滅亡する。
天正11(1583)年
真田昌幸、上田城を築く。このころ長窪城、廃城となる。
(看板資料より)


長窪城跡の場所はまったく分からなかったので長門町役場に寄って場所を聞きました。当日の日直の方に親切に教えてもらい場所を知ることができました。現地付近に到着してみると一番上の写真の通り城らしいものは見えるのですが入口を発見することができませんでした。資料によれば裏から行かれるとのことだったので国道254号線の方にまわってみたら上の写真のように小さな看板がありました。

信玄が佐久、小県を攻略する際に拠点となった長窪城は今回の重要目的地の一つでした。小説「武田信玄」でも、「信玄は大門峠を越えて長窪城に入った」というシーンは何度も出てきます。思ったより規模は大きくなく時期的にもまだまだ武田軍がそんなに大きな集団ではなかったということでしょうか?


長窪城跡案内図

掘切

裏の搦手から主郭までの間には北の郭郡といって5つの郭が細長く続いていてそれらは掘切で連続してつながっていました。全体的に細長い形であったようです。


主郭からの景色

主郭から急な坂を下って南の郭、馬屋、大手方面へと道は続いていましたが、足の痛さが限界となり、南の郭群のところまで行ったところで引き返してきました。


二の郭

幅13メートル長さ30メートルに及ぶ長窪城最大の郭である。郭に向かう尾根を幅2メートル深さ2メートルの竪掘が直上する。
(看板資料より)

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→